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試みにある人へ

 苦しみや試練は出来たら避けたいものです。イエスも「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)と祈るようにと勧めています。それでも、主が、私たちが試みに合うことを許されるのは、どうしてなのでしょうか。
 私の母がこんなことを話してくれたことがあります。母は、若かりし頃、弟によく伝道したそうです。イエスを信じて、救われ、心が燃えていたのでしょう、母は熱心に福音を語りました。けれども叔父は、心を開こうとしませんでした。むしろ「姉さんの信仰は、いやだ。」と言ったそうです。母は、父とともに、愛知県の片田舎で開拓伝道をしましたが、やがて大きな試みを受けて、何もかもを愛知に残し、傷心で上京しました。ところが、その母が叔父に面し、イエス・キリストを語った時、「今の姉さん、いいね~。」と言ったそうです。
 私たちは、成功の絶好調のときよりも、試みと悲しみの時に神様の近くにいると言うことがあります。心が砕かれ、へりくだっているからでしょう。「主は心の打ち砕かれた者の近くにあられ、たましいの砕かれた者を救われる」(詩篇34:18)とあります。
 試練や悲しみの中をと通ることは辛いことです。けれども、そこを通ることによって初めて知る恵みの世界があります。悲しみと涙の人であったイエスがそこにいて下さるのです。そしてイエスにあって私たちの人格は深められ、信仰は根が張った堅実なものとされ、何よりもイエスの聖さにあずかるのです。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」へブル12:11
                               (2006.3.12)
by sayama_church | 2006-04-01 21:50 | 牧師の窓 | Comments(0)
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