祈る幸い

 キリスト者にとって祈りをささげることができるとは、何と幸いなことでしょうか。聖書が教える祈りとは、「天のお父様!」と親しく語りかけ、一方的に自分の願いを申し上げるだけではなく、主が言われることを聞く相互的なものです。キリスト者は、主イエスの十字架の血による罪の贖いの故に、罪を赦され、神の子とされ、聖霊によってこのような親しい神との交わりの世界に入れられたのです。
 こんな文章がありました。「祈りなき人は、霧の中で無線が故障した飛行機のよう。あらゆる悩みをひとりで身に負わなければならない。唯一の救助者に、無線連絡もかなわない。困ったことです。が、意外にも人はそれに気づかない。祈りなき人は、神にとっては死人も同然。おそらく、愛する人の遺骸を前にしたことがあるでしょう。もう一度ことばが交わせたらと思います。が、もう一言も話さない。主は我々の前に立っています。主は我々と重大な話をしようとされる。が、我々は話すことができない。話せず、祈れない。聖書はこれを、「死んでいる」と言います。祈りなき人は、かげろうのよう。やがてさばきの日、神の前に立つと、神は仰せになるかもしれない。「わたしはあなたを知らない。あなたの口から一度として願いを聞いたことはなく、感謝のことばを聞いたこともない。ここに来なくてもよい。さあ、わたしのいない所、あなたが自分で選んだ所へ行けばよい。地獄へ行くがよい。」(ヴィルヘルム・ブッシュ著「365日の主」)
 私たちは、主イエスを愛します。主イエスにあって、聖霊の働きを通して父なる神を慕います。それ故に祈ります。そしてすべての重荷を降ろすのです。私たちはこのような恵みの世界に生かされているのです。
 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」詩篇55:22

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by sayama_church | 2011-09-25 21:44 | 牧師の窓 | Comments(0)
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