罪を放置しない

 説教は、「預言」と言い換えることができます。将来に起こる出来事を予め語る「予言」ではありません。「預言」は神からの言葉を預かり、それを人々に語ることです。そういう意味では、説教は講演や講義とは異なります。
 最近、私は、1世代か2世代前のある牧師の説教を読んで大変感銘を受けました。昔の牧師は、こういうことを語っていたのかと思い、ひどく考えさせられました。罪を明確に語り、指摘します。今日の牧師は、神の愛や恵みは語りますが、罪はそれほどはっきりと語らない傾向にあるように思います。思い過ごしでしょうか。
 私たちの救いの土台である十字架は、私たちの罪のために立てられました。罪は、神と私たちの関係を損ない、破壊します。神は、私たちの罪の解決のために、御子を十字架に磔にしなければならないほどに罪を問題にされたのです。罪のない御子イエス・キリストが十字架で断罪されたことにより、神の怒りは和らぎ、神の正義は満足しました。十字架は、御子を私たちの罪の身代わりにお与えになったほどの神の私たちへの愛が表れていると同時に、罪をそのままにしては私たちを受け入れることのできない神の義を示しています。
 私たちと神との親しい交わりを失わせるものは罪です。神の御顔を仰ぎ見ることができなくするのも罪です。神の御心や御旨を分からなくするのも罪であることがしばしばです。罪は、いかなる時にも正当化せず、隠さずに、神の前に告白して、捨て去り、十字架を仰ぎましょう。そうすれば神を親しく知ることができます。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」イザヤ59:1,2
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by sayama_church | 2013-07-19 22:31 | 牧師の窓 | Comments(0)
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