私は、趣味らしい趣味がない人間ですが、寝転んで本や新聞を読むのが大好きです。何となく疲れが抜けていくような気がします。
先日、河合隼雄のエッセイを読んでいてドキッとしました。説教についての文でした。「説教が長びくほど効果がないようである。聞かされる方は、『いつ終わるか』ということにのみ関心があって、語られている内容にはほとんど心を向けていないことが多い。そしてまた不思議なことに、『もう終わりだ』と思っていると、『しかしだな・・・』という調子で同じことが繰り返し語られたりして長くなるのである。・・・いったいこれはどうしてだろうか。それはまず、説教で語られる話が、何といっても「よい」話には違いないので、話している本人が自己陶酔するので長くなるようである。」(河合隼雄著「こころの処方箋」)もちろん、ここでの「説教」は礼拝の説教ではなく、いわゆる上司が部下に、親が子に対してするあの「説教」です。
でも考えさせられました。牧師の説教もダラダラと長くなったり、本来は神からの言葉を預かって人々に伝えるものが、自分の意見や人生観を語ったりします。私が、いつも短く、鋭く、平明で、人に慰めと命をもたらす神の言葉を取次ぐ説教者であるようにお祈りください。
「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒に中に私を隠した。」イザヤ49:2