ともに集まる喜び

先週、何とキングスガーデンでの礼拝の御用をすっぽかしてしまいました。しかも、翌日になって手帳を見て初めて気が付く有り様。一瞬、血の気が引き、何かの間違いかとあせり、何度も手帳を見つめ直しました。でも事実は変わりません。慌てて、電話をかけて、お詫び申し上げた次第でした

そんな私が書くのはいささか気が引けるのですが、キリスト者にとって「集まる」ことは、生命的なことです。聖書は言います。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」ヘブル10:25

教会史をひも解くとこんな出来事がありました。ローマ皇帝はキリスト者を迫害しましたが、皇帝デイオクレテイアヌスは従来のやり方を変えて「それぞれ個人の信仰に生きてもよい。ただし、集まることはまかりならぬ。」と布告しました。しかし教会は答えます。「我らイエスの弟子にとって、集まることは霊的ないのちの一部分。我々としては集まるほかない。死んでよみがえった主への信仰を固くし、互いに訓練し、共に賛美し、祈るために、必要だ。」この結果、教会はかつてない激しい迫害を受けました。(ヴィルヘルム・ブッシュ著「365日の主」一部引用)

確かに信仰は、主イエスと個人的な関係、交わりを持つという意味においては個人的です。けれども、一緒に集まるところに主イエスは臨在されるのです。ですから信仰は共同体的でもあるのです。今日も、一緒に集まり礼拝を捧げられることを喜びたいと思います。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ1820


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by sayama_church | 2014-08-10 17:47 | 牧師の窓 | Comments(0)
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