「人生は冒険である。」と言う名言があります。だれが語ったのかは分かりませんが、とても魅力的な言葉です。
信仰も、冒険的な面があります。アブラハムは信仰の父と呼ばれますが、彼について聖書は次のように言っています。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出ていきました。」(へブル11:8) どこに行くのかを知らないで出て行く人など、一体いるでしょうか。普通の人がすることではありません。かなり冒険的です。アブラハムがこのような冒険的な一歩を踏み出すことができたのはなぜでしょうか。神の言葉があったからです。彼は、神の召しの言葉に応答したのでした。
私も、信仰生活を振り返ると、結果的にかなり冒険的なことをしました。安定して将来性もあった会社勤めを辞めて献身したこと。神学校卒業と同時に既存の教会での奉仕ではなく開拓伝道に出たこと。子どもの頃から冒険などしたこともなく、する勇気もなかった小心者の私には考えられない選択でした。けれどもその時は、冒険的なことをしている意識は全く無く、心は平安でした。ただ神の言葉に応答し、従い、導かれ、道が開かれるままに歩んだに過ぎませんでした。
信仰生活はある意味で冒険です。なぜならば、神の言葉は人間の常識や可能性を超えているからです。けれども何の保証も理由もない冒険ではなく、確かな神を拠り所とした冒険なのです。主イエスと共に歩む人生は、限りなく魅力的です。