キリスト者の生の実質は、何でしょうか。あるいは、何であるべきでしょうか。
使徒パウロはこのように言います。「私にとっては、生きることはキリスト」(ピリピ1:21)このパウロの言葉を、私になりに理解して言い換えるならば、このようになります。私にとって生きることはキリストと共にあることである。
福音の中心は、キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠のいのちであることは言うまでもありません。けれどもこのことを別の角度から言うならば、それは「キリストと共にあること」であると私は信じています。
私たちは、とても慌しい、忙しい世界に生きています。そこでは、いつでも何を成し遂げたかが問われ、効率が求められています。そのために、無意識の中にも人は何かを獲得しければならない、結果を出さなければならない、という強迫観念にも似たものを身にまとって日々を過ごしています。キリスト者も例外ではありません。多分に影響を受けています。そのために「キリストと共にある」というその状態を、単純にそのまま喜び、感謝し、その恵みを味わうことができないでいます。
旧約聖書にも「主こそ、私の受ける分です。」(哀歌3:24)という表現が出てきます。これは、本当の神から与えられる恵みと祝福は、土地や財産ではなくて主ご自身であるとの意です。もう一度、福音の原点に立って、キリストが私の救い主であり、主であり、神であって、そのお方が私と共におられることを喜びたいと思います。