今日は、インマヌエル狭山キリスト教会との合同礼拝です。今回が2度目です。こうしたことが実現したことは、背後に深い主のご支配があるのだと思って心から感謝しています。
聖書の中にこのような御言葉があります。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」(Ⅰコリント10:16-17)
言うまでもなく、これは聖餐のことを語っています。初代教会は、聖餐にあずかるたびに、キリストの十字架の血による罪の赦しを確認しただけではなく、主イエスを信じている者は、一つのからだなるキリストに連なっていることを覚えていたのです。一つのからだとは、一つの教会のことです。
目に見える教会は、数多くあっても霊的には教会は一つです。たとえ信仰に導かれた教団・教派が違っていても、実は私たちは同じキリストに連なっているのです。聖餐は、そのことを思い起こさせてくれます。