レプタ2つ

私は、献金の話をするときは、幾分、躊躇いを覚えることがあります。お捧げになる方の気持ちや経済を考えて人情的になってしまうからです。けれども、献金ほど信仰者と生きた神様とのリアルな関係が現われるものはないかもしれません。と云うのは、私たちは愛する者のためにはいくら犠牲を払っても惜しいとは思わないからです。

今日の聖書通読箇所に、貧しいやもめがレプタ銅貨二つを捧げた話がありました。主イエスはこう言われました。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ21:3

ㇾプタ銅貨は、当時の最小単位の銅貨で、一ㇾプタは今日の60円~80円に相当します。貧しいやもめは、それを2枚捧げたのです。考えてみますと、私たちは、これまでこのㇾプタ銅貨の話を「わずかであっても真心からお捧げすることが大切である」という意味で用いてきたように思えますが、ここで主イエス様が目を留められているのは金額の大小でもなく、やもめが払った犠牲であることが分かります。彼女は、乏しい中から生活費の全部を捧げたのでした。

献金の原則は、「強いられてではなくて喜んで捧げる自分の心で決めたもの」(Ⅱコリント9:6)です。また収入の十分の一は神様のもので、それを捧げる人への経済的な祝福を神様は約束(マラキ3:8-10)しています。しかし、私たちはこの貧しいやもめのように痛みを伴う捧げものをするほどに、神様を知り、神様に感謝し、神様を愛する人なのでしょうか。考えさせられます。


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by sayama_church | 2017-09-13 21:57 | 牧師の窓 | Comments(0)
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