私たち夫婦には、3人の娘がいます。どの子もかけがえのない子どもです。真ん中の子は、母親の胎内にいるときに水腎症と言われました。それで、まだ物心もつかないときから母親から引き離されて何度か入院をし、辛い検査や手術を受けたりしました。その後も、どう言う訳か全体的に同年代の子どもと比べて発達がゆっくりで、そのために色々と苦労しています。
ところが、その子を見ていて感心することがあります。決していじけず、ひたむきで、切り替えが早く、そして何よりも心根が優しいのです。私が、姉や妹を厳しく叱ろうとすると、泣いて仲裁に入ってきます。家の犬がやたらと吠えるので叩こうものなら、顔をくしゃくしゃにして抗議します。恐らく、この子のこれまでの辛い経験が、こうした優しい心や思いやりのある心を育んでいるのでしょう。この子を見ていると、神様はこの子を祝福して下さっていることがよく分かります。
さて、私たちは、思いもしなかった暗い中を、失望と落胆の沼地を通ることがあります。どうして神様は私をこんな辛く悲しいところを通らせるのだろうか、と思うこともありましょう。しかし、そんな失望絶望の経験が、後になっては、主イエス・キリストにあって益となっているのに気がつくときが来るのです。
詩篇の記者は言っています。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 詩篇119:71
主イエス・キリストにあって、何と「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」と言えるときが来るのです。