カテゴリ:牧師の窓( 603 )

和解

先週は、日本宣教会にとって、とても喜ばしい出来事がありました。23年前に日本宣教会を離脱したK教会と和解して、交わりを再開することになったのです。同教会は、私の母教会ですので、私個人にとっても大きな出来事でした。

N牧師夫妻が教団本部に見えてくださり、日本宣教会の牧師たちに対して、初めて脱会にいたった経緯を話して下さり、深々と頭を下げて謝罪の言葉を述べられたとき、23年の隔たりが一瞬にして消えてなくなったように私には感じられました。そしてN牧師に対する尊敬の念を深めた思いでした。

私たち牧師も弱さをもった人間であり、また教会もそうした人間の集まりです。ですから私たちの教団の歩みと歴史の中には、人間の弱さから生じる過ちや失敗がなかったわけではありません。けれども、信仰者にとって最も大切なことは、神様から道を正すように示されたときにその光に素直に応答することではないかと思います。与えられた光に素直に従うところに信仰の純粋さがあり、信仰者の本当の偉大さがあるのです。

年を重ねてきたせいなのか、実はここ最近は、K教会で過ごした青年時代を懐かしく思い出すことがしばしばありました。そうした中での出来事でしたので、一層嬉しく、主に感謝を捧げたことでした。

「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:50


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by sayama_church | 2017-11-19 17:49 | 牧師の窓 | Comments(0)

キリスト教信仰の醍醐味

キリスト教信仰の醍醐味は何でしょうか。そのことを問われたら何と答えるでしょうか。聖書に次のように御言葉あります。

「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」Ⅰテサロニケ5:10

現代は、本当に目まぐるしい、刺激の多い時代です。私たちの目や耳は、テレビ、新聞、雑誌、スマホからの洪水のような情報に絶えずさらされ、心は真新しい出来事を追いかけて、いつも何となく忙しく生活しています。一体、どれだけのクリスチャンが「今、私が、ここに、主とともに存在していること」を喜んでいるでしょうか。

人間の幸いは、聖書を読む限りは間違いなく、物や出来事にあるのではなく(何かを得たということにあるのではなく)、「交わり」にあります。唯一の真の神が父・御子・聖霊の三位一体の交わりの中にあるように、私たちも神との交わりの中に生きるときに幸福なのです。そこに、いのちと喜びがあります。そこは神の国です。主が私たちのために死んで下さったのは、まさに「主とともに生きるため」なのです。

主とともに生きる人は、人との交わりを喜びます。こうして神の国は広がるのです。キリスト教信仰の醍醐味は、この主とともにある「交わり」にあるのです。


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by sayama_church | 2017-11-18 07:35 | 牧師の窓 | Comments(0)

天国の希望 

先日、YMC主催のチャリテイランに教会の人たちと参加しました。たった1㎞ほどの距離だったのですが、だんだんと息が上がり、ようやくの思いでゴールしました。

それにしてもマラソンにゴールがあるように人生にも終わりがあります。私はいつまでも若い気持ちでいましたが、今回のマラソンで自分の年齢を感じさせられました。普段の運動不足もあるとは言え、確実に年を取っているのです。

主イエスは言われました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」(ヨハネ14:1,2)「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(同14:6

これは、弟子たちが死に対して漠然とした不安を抱いたときに語られた言葉です。人は、死を意識することはほとんどありませんが、何かの拍子で現実の問題となり、死がすべての終わりだとは思えなくなる時があります。主イエスは、全人類の罪をその身に負い、十字架で苦しみ、いのちを捨てることを通して、私たちに罪の赦しと天国の希望を約束し、保証されたのです。

私は、小学生4年の頃にいつ死んでも天国に行きたいと思い、主イエスを信じました。牧師に導かれて、罪を告白し、主イエスを心に迎える祈りをささげた時を忘れることができません。薄暗い私の心に光が差し込み、平安が与えられたのです。主イエスは、確かな私たちの救い主です。


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by sayama_church | 2017-11-09 17:33 | 牧師の窓 | Comments(0)

福音

聖書のメッセージを一言でまとめるならば、「イエス・キリストによる福音」と云うことができます。

以前、まだ神学生の頃に、ある教会の子どもキャンプに招かれました。23日にわたって、自分なりに聖書を一生懸命にお話しして、キリストの十字架による救いを語りました。最後に、一人の女の子に尋ねました。「どうしたら天国に行けると思う?」すると彼女は少し考えた後に「これから良いことをいっぱいして、そうしたら天国に行けるかもしれない。」と答えてくれました。本当に正直な答えでしたが、私は、自分のメッセージが伝わらなかったことを痛感しました。

宗教は、一般的に戒律や儀式を守るように教えます。ですから、多くの人は聖書も「道徳的、倫理的に正しくあるならば、救われる。神の恵みを受けことができる。」と教えているのだろうとイメージしています。けれども、聖書は、「救いは、私たちの正しい行い、良い働き、さらには宗教的な熱心さ、犠牲によるのでもなくて、ただイエス・キリストの十字架による。」と語るのです。

私たちの罪が赦されるのも、神を父と呼び祈りを捧げられるのも、ただ私たちの罪のためにいのちを捨てられたキリストの十字架によるのです。救いの根拠は十字架以外にありません。キリストの十字架に究極的に示された神の愛に身をゆだねること、そこに救いがあり、それがゆえに福音なのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

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by sayama_church | 2017-10-29 20:06 | 牧師の窓 | Comments(2)

認知症 

先週は認知症をテーマに第二回キリスト教エンディンクテンセミナーを開催いたしましたが、雨の中にもかかわらず多くの方が集われて、皆さんの関心の高さを感じさせられました。

認知症になっても「嬉しい、悲しいなどの人間としての感情は最後まで残る」「その人がその人になっていく」との講演者(当教会員のE姉)の言葉は、私の心にとても響いて残りました。たとえ認知機能が衰えても、依然として私たちは神に創造され、神に愛されている尊い存在なのです。

もう召されましたが、年を重ねて認知症になり、グループホームに入所された教会員がいました。初めの頃は、軽かったように思いましたが、だんだんと症状が進み、私のことも、息子さんでさえ、だれであるか分からなくなっていきました。けれども、訪問をするといつもにこやかに迎えて下さり、讃美歌を歌うと大変喜ばれ、祈りにも心を合わせて下さいました。私は、いつもほのぼのとした、すがすがしい気持ちで施設を後にしました。

たとえ認知症ではなくても年を重ねて自分の力が一つ一つ失せていくとき、人の内にあるものが顕著に現われてきます。私たちの心の奥底にあるものがキリストによる平安と喜びであるようにと祈ることです。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」Ⅱコリント4:16


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by sayama_church | 2017-10-22 16:19 | 牧師の窓 | Comments(0)

神を信頼する

日本人の多くは、「あなたの宗教は何ですか?」と問われたら「無宗教」と答えるのではないでしょうか。それでいて宗教心が無いかと言うと、とんでもない、とても信心深いと思います。正月になると各地の神社は、参拝者で溢れかえります。

 日本人は、信心は大切にしますが、信仰の対象はあまり問題にしないのです。自然の偉大さを感じさせる巨木や大岩にしめ縄をしてご神体にしたり、人の手で彫られた像に手を合わせたりしますが、よくよく考えたら不思議なことです。木は木であり、岩は岩。像は人の手で作ったものです。手を合わせる人間の方がよほどまさっています。

こんなことは心のどこかで分かっているからでしょう。日本人は、神仏に手を合わせても神仏を信頼することは決してしません。ましてや神仏に身を委ねることなどするはずがありません。日本人が信頼するのは、神仏ではなくて、人であり、自分自身です。そして、人も自分も究極的には頼りにならないことを痛感して、悩み、恐れ、不安になり、心は揺れ動くのです。

しかし、聖書はこう言います。「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。・・・幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」(詩146:3-5聖書が啓示する神は本当の神です。主イエスにあって真の神を知り、その神に信頼を置く人は、力強く生きることができるのです。


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by sayama_church | 2017-10-17 13:28 | 牧師の窓 | Comments(0)

神を畏れる 

私はつい最近あることを通して、人は神の前にある存在なのだということ強く意識させられました。悲しいことに私たちはほとんどの場合、神の前に立つ自分を意識することはなく、人の目ばかりを意識して生きています。人にどのように思われるだろうか。どのように見えるだろうか。どのように評価されるだろうか。そうしたことばかりが私たちの歩みの根幹になってはいないでしょうか。

 聖書を読むときに、人の目以上に、神の目を意識した人が出てきます。彼らは、決して完全な者ではなく、弱さを持ち、失敗をしています。しかし、それでも神の前に立つ自分を意識します。と言うよりも、神の前に立つ自分を意識する恵みを神によって与えられたと言う方が正確なのかもしれません。神の前に立つ自分を意識することが神を畏れることです。

 ダビデはこのように祈りました。「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」詩篇19:14

 ダビデも神を畏れる一人でした。人の口のことば、心の思いには、しばしば傲慢が紛れ込み、一見正しく見える私たちの行いの根には自分本位の心が隠れていることがあります。私たちには、やがて否応なく神の前に立ち、申し開きをしなければならないときが来ます。願わくは、日々神を畏れ、主イエスにあって歩みたいと祈らされることです。


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by sayama_church | 2017-10-08 21:46 | 牧師の窓 | Comments(0)

びっくり老人

 近年は、健康で長寿の人が増えているように感じます。私たちの教会にも90歳を超えてかくしゃくと礼拝を守り、皆の励ましになっている方がいらっしゃいますが、先週はさらにびっくりするような人に出会いました。

 都内の教会で会合があるので、電車を乗り継いで出かけて行ったのですが、そこに90歳を超えた人が二人も出席されていました。おそらくお二人とも初めて来る教会だったと思いますし、何回か複雑な乗り継ぎをしなければ来られない場所でした。時間も1時間以上はかかっているはずです。さすがに心配した私は、帰りは方向が同じお一人と途中までご一緒させてもらいましたが、駅構内のざわめきに負けない張りのある大きな声で話をされ、階段は2段上がりをするなど驚かされました。しかもまだ現役の神学校の教師だと言うのです。

 聖書にこのような御言葉があります。「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(詩篇92:14

 自分はこんなにかくしゃくと長生きをすることができるのだろうかと考えさせられましたが、最後まで神を畏れ、主イエスを愛し、御霊によって歩む生き生きとした人生を歩みたいと願わされたことでした。


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by sayama_church | 2017-10-06 16:49 | 牧師の窓 | Comments(0)

大切なもの

 先週開かれたエンディングセミナーでは、講師の後藤邦江さんから「片付け、整理の仕方」について学びました。ポイントは、「自分にとって大切なものは何か」を明確にしておくことだそうです。「なるほど」と思いました。確かに軸が明確になると要、不要の区別ができ、捨てるべきものが分かります。

 それにしても「捨てる」ことは、簡単そうでなかなか難しいです。私も必要のないものを抱えて、机の引き出し、本棚や部屋の中がなかなか片付きません。

 ところで聖書を読んでいると、「捨てる」ことにおいて非常に潔い人たちが登場します。漁師であったペテロとアンデレは、主イエスに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19と言われたとき、「彼らはすぐに網を捨てて従った。」(同4:20とあります。ヤコブとヨハネは、網どころか「すぐに舟も父も残して」(同4:22イエスに従いました。網は職業、船は財産、父は肉親です。彼らは、「何かを捨てる」どころか、「なにもかも捨てて」イエスに従ったのです。それには驚かされます。何が彼らをしてそこまでさせたのでしょうか。

 後日、ペテロはイエスにこう言いました。「主よ。私たちはだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」(ヨハネ6:68ヨハネは、さらに復活のイエスがいのちそのものであると言っています。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を待たない者はいのちをもっていません。」(Ⅰヨハネ5:12彼らは、イエスの中に自分たちを生かす「いのち」を見出したのです。

私たちは、様々なものを抱えこんで生きています。しかし、自分にとって何が本当に大切なものか考えたことがあるでしょうか。あなたは、自分を生かす「いのち」そのものを持っていらっしゃいますか。


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by sayama_church | 2017-09-29 22:00 | 牧師の窓 | Comments(0)

2017年9月24日(日)のご案内

◆ 早朝礼拝  午前7:00~7:40

        説教  小坂嘉嗣師



◆ 主日礼拝  午前10:30~11:45

        説教  イサク~ただ恵みによって~
                       
                     創世記21:1~3
      
                         小坂由紀子師




◆ 夕  拝  午後7:00~7:40

            説教  小坂嘉嗣師
     
              
 
・教会の集まりは、いつでもオープンです。どなたでも参加することができます。
 教会が初めての方、久しぶりの方もどうぞお気軽にお出かけください。
 ストレス、問題、悩みの多い日常にあって、心の安息と生きる力が与えられます。 
 信仰を強制したり、押し付けるようなことは一切ありませんのでご安心ください。

・当教会は、近隣のミッションスクール(聖望学園、明治学院)の生徒さんが
 授業の一環でしばしば出席されています。
       
・礼拝の中で席上の献金のときがありますが、自由献金です。
 スルーされても構いません。

・賛美歌、聖書は教会に備え付けのものがあります。

・教会の裏に十分な広さの駐車場があります。
   
・朝の主日礼拝では教会車による無料の送迎があります。
  <送迎場所>
   10:00am 武蔵藤沢駅東口前のグリーンガーデンのコープ(生協)前
   10:10am 入曽駅西口
     お身体の不自由な方のご自宅

  送迎車をご利用の場合は、予めお電話をいたでけますと
  間違いがありません。
      ℡ 04(2956)5973

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by sayama_church | 2017-09-23 10:58 | 牧師の窓 | Comments(0)