カテゴリ:牧師の窓( 584 )

父なる神

私たちにとりまして、幸福とはどんなことでしょうか。自分の存在が肯定され、喜び受け入れられることではないでしょうか。

もう随分前のことですが、今は天に召された一人の老婦人が教会に見えておられました。若くしてご主人に先立たれ、3人のお子様を女手一つで立派に育てられた方でした。彼女は、祈祷会のあかしの時間になると率先して口を開かれるのですが、たいがい決まって子ども時代の父親との思い出の話でした。当時、まだ若かった私は、80歳を超えた方が、夫や子どものことよりも父親の話をされるのを何か不思議に感じたものでした。しかし、今にして思えば、自分の存在を肯定して、喜び受け入れてくれた父親との思い出が、彼女の心の底に幸せな感情に包まれて、ずっと残っていたのだと分かります。

さて、聖書に次のような御言葉があります。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これは、主イエスがバプテスマ(洗礼)を受けて、水から上がられたときに、天から告げられた声でした。同じ言葉が、主イエスによって罪が赦されて神の子とされた私たちに対して、父なる神が語り掛けておられると云うのが、聖書が告げるメッセージです。

聖書が啓示する神は、私たちの存在を肯定して、喜び受け入れて下さる霊的、理想的な父です。あなたも主イエス・キリストを通してこの方を親しく知ることができますように。


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by sayama_church | 2017-07-20 08:03 | 牧師の窓 | Comments(0)

主を待ち望む者に

次から次へと生まれる重荷や労苦のために、ものごとが願うように進まないことのゆえに、心が疲れ、すり減り、沈むことはないでしょうか。

聖書にこんな御言葉があります。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『わたしの道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と。・・・若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ40:2731

ここで「ヤコブ」「イスラエル」と呼ばれている人は、明らかに「自分は神に忘れられているのではないか」と思いたくなるような苦しみの中にいます。それで「わたしの道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と言っているのです。私も、青年時代に、思うように道が開かれない状況に鬱鬱として、この御言葉に大変共感を覚えたものでした。しかし、主は「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ40:29お方です。主を待ち望む時に、重荷や困難がむしろ天空高く舞い上がる鷲の翼のように変えられるのです。

心が疲れ、沈むとき、問題や課題を見つめたり、他人と比較したり、自分を嘆いたりするのではなくて、主を待ち望ませていただきましょう。必ず鷲のように翼をかっての上る力が与えられます。


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by sayama_church | 2017-07-10 07:17 | 牧師の窓 | Comments(0)

あなたがたの祈りと御霊の助け

東海聖会の奉仕のためにお祈りをありがとうございました。気軽に引き受けたものの、このところ忙しい日々が続き、期日が迫っても準備がままならず、加えて肉体的な疲労も重なって、主の助けを本当に必要としていましたが、無事に責任を果たすことができました。心ある方々の祈りと御霊の助けのゆえであると深く感じています。

聖書に次のような御言葉があります。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」(ピリピ1:19)

これは使徒パウロの言葉です。彼は今や投獄の身で、しかも日ごろパウロを妬ましく思っていた一部の伝道者仲間は、パウロの投獄をむしろ喜び、パウロを精神的にも苦しめていました。このような外面的にも内面的にも非常に厳しい中にありながら、パウロはピリピの教会の祈りと御霊の助けによって、一切のことが益になるばかりか、救いになるのだと確信しているのです。パウロは、彼の歩みを支えるのは、心ある信仰者の祈りと御霊の助けであることを深く頷いていたのです。

キリスト者の歩みを支えるのは、教会の祈り(キリスト者同士の祈り)と御霊の助けです。お互いに祈り合い、また御霊の助けを信じて歩んでいきましょう。


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by sayama_church | 2017-07-02 21:33 | 牧師の窓 | Comments(0)

裁く

 私たちは、ついつい他者を批判したり、裁いたりします。何気ない会話でもフッとそうした言葉を口にしてしまうことはないでしょうか。先日、ある会合であからさまではないにしても、暗に他者を批判するような発言をした自分に気が付き、後で悔い改めたことでした。

 主イエス様はこう言われました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」マタイ7:1-3

 ここで主イエスは、人を裁くとき、その裁いた尺度で自分も裁かれることになるから注意しなさいと言われたのです。もし、主にある兄弟のなかにちりのような小さな欠点を見つけたならば、自分にはそれ以上の梁のような大きな欠点があることに気づきなさいとも言われたのです。正しく、また究極的に人を裁くことのできるお方は、主だけです。

 不思議なことですが、人は他者にしたように自分にも返されます。人を量るように自分も量られるのです。ものごとには、私たちが知らない隠された一面があることを弁えて、安易に人を批判することはしまいと思わされたことでした。


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by sayama_church | 2017-06-18 18:09 | 牧師の窓 | Comments(0)

かえっての恵み 

 先週は、日本福音同盟の総会に出席いたしました。日本福音同盟は、聖書は誤りなき神の言葉であると信じる聖書信仰を標榜する教団、教会の交わりの組織ですが、ここ最近は、日本全体の教会の教勢の鈍化、ことに地方教会の疲弊、弱体化の現状から教派、教団を越えての宣教協力が課題として意識されるようになってきました。

 宣教の困難さのゆえに、かえって異なる教派、教団の交わりや協力が深められつつあるのですから、神様のなさることは不思議です。聖書にこんな御言葉があります。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」(ピリピ1:12

 ここで「私の身に起こったこと」とは、使徒パウロの投獄経験です。宣教を使命として、旅から旅をして福音を伝えていたパウロにとっては、自由を奪われたことは大きなマイナスであったはずです。ところが、このことの故に福音はローマの親衛隊全員に広まり、さらに諸教会は強められて大胆に神のことばを語るようになり、かえって宣教は進んだのです。「かえって」の恵み、奇跡です。

 私たちの人生にも、とうてい受け入れがたい心悩ます出来事が起きてくるかもしれません。しかし、そのような時でも、神様のご支配を信じて歩むならば、そのことがなければ味わえなかった恵みをきっと経験することでしょう。


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by sayama_church | 2017-06-11 20:14 | 牧師の窓 | Comments(0)

ペンテコステ礼拝 

 今日は、ペンテコテ礼拝です。主イエスの十字架、復活、昇天の後に神の霊である聖霊が、待ち望んでいた弟子たちに降り、彼らは聖霊に満たされました。このことを記念し、それだけではなく、現在主イエスを信じている私たちにも聖霊が与えられていることを確認し、さらに主イエスに自分自身を明け渡し、捧げるならば、聖霊に満たされる恵みがあることを覚えるときでもあります。

 聖書はこう語ります。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:1920

 私たちを造られた神は、私たちのただ中に住み、親しい関りを持ちたいと願っています。それで、旧約時代には契約の箱を与えて、荒野では幕屋、カナンに定住するようになっては神殿を通して、神の民の中に臨在されました。やがて神の御子キリストは受肉して、人の間に住まわれましたが、十字架の死による罪の贖いと復活、昇天の後には、聖霊において主イエスを信じる一人一人の内に神はお住まいになるようになったのです。これが驚くべき新約の恵みです。

 主イエスを信じているならば、あなたの内にも聖霊が住まわれています。しかし、「聖霊が住まわれる」と「聖霊に満たされる」は違います。主イエスを信じた後も自分勝手に生きることもできます。願わくは、聖霊の宮としての自覚を持ち、神に自分を全く明け渡して生きるキリスト者でありたいものです。そこには大きな祝福があります。


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by sayama_church | 2017-06-04 13:32 | 牧師の窓 | Comments(0)

信仰生活 

 主イエスが復活されて、ご自身を弟子たちに現わされた主の日を覚えて、本当にようこそ礼拝にお集まり下さいました。私は、木更津の教会で礼拝を捧げていますが、狭山の教会の間中に復活のキリストがお立ちくださり、お一人お一人が主にお会いし、罪の赦し、希望、慰め、癒し、希望、喜び、力を受けることができますようにとお祈りしています。

 信仰生活とは、復活のキリストとともに歩むことです。聖書にこうあります。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」Ⅰテサロニケ5:10

 主イエスの十字架の苦しみと死によって、私たちの罪は赦され、主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(Ⅰコリント1:9)主イエスとともに生きるものとされたのです。ここには、人を生かす大きな喜び、いのち、力があります。

 私は、罪を悔い改めて主イエスを受け入れたときに、主イエスが共にいて下さる喜びと平安を経験しました。残念ながら、その後の歩みにおいては、主イエスご自身ではなくて、主イエスが与えてくださる地上的祝福に心を奪われていた時期が長くありました。そのようなときは、他人と比べて落ち込んだり、時には優越感に浸ったりのアップダウンの激しい歩みだったように思います。

 しかし、やがて信仰者の喜びは、主イエスとともに生きること、そのものにあることが分かるようになりました。さながら、花嫁が、夫が持っている財産ではなく、夫の存在そのものを喜びとするように。復活の主はあなたと共におられます。


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by sayama_church | 2017-05-28 20:15 | 牧師の窓 | Comments(0)

聖書の光

私は、子どもの頃に聖書に触れました。以来、何度も聖書を読み、今も繰り返し読み続けています。そして、最近は聖書の光の中に身を置かなければ、人は幸福になれないとつくづく感じるようになりました。

 先日、娘の一人が私に質問しました。「なぜ、世界には人身売買を行っている国があるの?」その口調には明らかに義憤が見てとれました。「とても悲しいことだね。でも残念だけども日本にも形をかえた人身売買はあると思うよ。」「売春とか?」「そうだね。それだけではないと思うよ。聖書の神様を信じないと人間は、犬や猫、豚や猿と本質的には全く変わらなくなってしまうのだよ。そうなると豚が食肉になるように、人間の臓器を売買の対象にする発想が生まれてしまう。そんな大それたことだけではないよ。聖書の神様を知らないと人間の価値の根拠が見えなくなるから、人は物や道具のようになり下がり、他人を自分の利益や欲望を満たすための手段のように利用してしまうのだよ。」

 聖書は、人間についてこのように言います。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創1:27)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4

 人間は、神と交わりを持つように神に似せて造られ(神ではない)、神に高価で尊い、愛していると言われているところに人間の尊厳の根拠があるのです。人間の価値についての言及だけではありません。聖書を読むと、人間が人間らしく幸福に生きるための光をたくさん与えられるのです。


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by sayama_church | 2017-05-21 20:24 | 牧師の窓 | Comments(0)

母のような神

 今日は、母の日です。母親が健在な方、召された方。母親に対して良い思い出をお持ちの方、そうではない方。色々いらっしゃると思います。

 たまたま新聞の人生相談のコーナーでこんな記事を目にしました。「父はアルコール依存症で、母は私にあたりちらし、つねられる、たたかれるが普通の幼少時でした。4歳で初めて自殺を考え、殺鼠剤を飲もうとさえしました。小さな頃からバカ、ブサイクなどと言われ続け、32歳で結婚。悩んだ末に子どもを産みました。何とか最高の母親になろうと努力して、子どもは優しい人になりましたが、ある日、母から『あなたがいい子育てをしたのは、私がいい親だったからよね。』と言われ、ショックを受けました。今更自分が受けた傷を話して老いた母を苦しめたくもないし・・・。私の人生って何だったのでしょうか?」(2017.5.13朝日新聞「悩みのるつぼ」から抜粋)心が痛む内容です。

 ところで聖書が啓示する神様は、父なる神と呼ばれますが、母親のような面も持っています。次のような御言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15

 前述の投稿者のように母親との関係で傷を持っている人もいるでしょう。しかし、神は、理想的母親のように、「あなたを忘れない。あなたをあわれむ」と言われているのです。


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by sayama_church | 2017-05-14 20:12 | 牧師の窓 | Comments(0)

主にある兄弟姉妹

 5月の連休をどのようにお過ごしになりましたか?ゆっくりと休めた方、仕事に出なければならなかった方、いつもと変わらない日々だった方・・・それぞれだったでしょう。

私と言えば、うっかり(?)と予定を詰めてしまい、5日の子どもの日になってようやく真ん中の子と智光山公園に遊びにいくことができました。長女と末っ子は、家内と高校野球の春の大会の観戦へ。子どもも大きくなると趣味や関心も違ってきて、二手に分かれての一日でした。

ところで、人間にとって、語り合い、笑い合う家族や友人は、とても大切です。私たちは、他者との交わりを必要としています。なぜならば、人は、父、子、聖霊の三位一体の交わりの中に永遠から永遠に存在されている神に似せて造られているからです。神は交わりを愛され、私たちも交わりを必要としています。

神は、私たちのそばに家族、親族、友人を置いてくださいましたが、また、キリストにある兄弟姉妹も与えてくださいました。主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神の子とされたお互いは、キリストにある兄弟姉妹なのです。教会の交わりが聖霊によってますます豊かにされて、お互いを慰め、励まし、高めることができるようにと祈るものです。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12:50


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by sayama_church | 2017-05-10 17:26 | 牧師の窓 | Comments(0)