カテゴリ:牧師の窓( 593 )

日々新たに

 明日は、敬老の日です。人生の先輩の皆様には、心からのお祝いを申し上げたいと思います。「本当に、おめでとうございます!」

私は、いつもお祝いする側にいるのですが、最近になりましてフッと自分もそう遠くない将来にはお祝いされる側に立つときが来るのだという思いが過りました。当たり前のことではありますが、今までにない気持ちでした。それだけ、私も年齢が進んだということなのでしょうか。

ところで聖書には次のような御言葉があります。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(Ⅱコリント4:16

牧師として、様々な人の人生に関わりを持ってきましたので、年を取ることの意味や重さを垣間見る機会は、比較的に多くあったように思います。これまでできていたことが段々とできなくなっていき、やがて人の助けがなくしては日常の生活が困難になってしまうことは、大きな試練であることをしばしば感じてきました。しかし、ここに大きな希望があります。

 「外なる人」である肉体は、年を重ねるにしたがって残念ながら少しずつ衰えていきますが、私たちの内面である「内なる人」は、日々新たにされることができるのです。イエス・キリストを信じる者は、天国に相応しい者へと聖霊によって日ごとに造りかえられ、年を重ねれば重ねるほど天国への希望を抱いてますます輝くことができるのです。


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by sayama_church | 2017-09-20 20:57 | 牧師の窓 | Comments(0)

レプタ2つ

私は、献金の話をするときは、幾分、躊躇いを覚えることがあります。お捧げになる方の気持ちや経済を考えて人情的になってしまうからです。けれども、献金ほど信仰者と生きた神様とのリアルな関係が現われるものはないかもしれません。と云うのは、私たちは愛する者のためにはいくら犠牲を払っても惜しいとは思わないからです。

今日の聖書通読箇所に、貧しいやもめがレプタ銅貨二つを捧げた話がありました。主イエスはこう言われました。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」(ルカ21:3

ㇾプタ銅貨は、当時の最小単位の銅貨で、一ㇾプタは今日の60円~80円に相当します。貧しいやもめは、それを2枚捧げたのです。考えてみますと、私たちは、これまでこのㇾプタ銅貨の話を「わずかであっても真心からお捧げすることが大切である」という意味で用いてきたように思えますが、ここで主イエス様が目を留められているのは金額の大小でもなく、やもめが払った犠牲であることが分かります。彼女は、乏しい中から生活費の全部を捧げたのでした。

献金の原則は、「強いられてではなくて喜んで捧げる自分の心で決めたもの」(Ⅱコリント9:6)です。また収入の十分の一は神様のもので、それを捧げる人への経済的な祝福を神様は約束(マラキ3:8-10)しています。しかし、私たちはこの貧しいやもめのように痛みを伴う捧げものをするほどに、神様を知り、神様に感謝し、神様を愛する人なのでしょうか。考えさせられます。


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by sayama_church | 2017-09-13 21:57 | 牧師の窓 | Comments(0)


私は夢を見ます。日曜日になると人々が主を求めて、列をなし、波のように教会に押し寄せ、集うようになることを。徒歩で、自転車で、車で。


私は夢を見ます。朝、昼、夕に毎日、教会から祈りの香が立ち昇ることを。毎日神の御言葉が語られ、求める人たちの心を満たすことを。


私は夢を見ます。街のどこに出かけても主にある兄弟姉妹に出会うようになることを。スーパーでも、病院でも、学校でも。それほどにこの街に多くのキリスト者が生まれることを。


私は夢を見ます。年を取って身体が不自由になった人、障碍を抱えた人、行き場を失った人、顧みる人のいない人、傷つき弱った人、貧しい人が、イエス・キリストにあって慰められ、癒され、立ち上がり、生きがいと喜びをもって歩むことができる場所、仕事、機会、助け、福祉を教会が提供できるようになることを。   


私は夢を見ます。子ども、青年がイエス・キリストにあって健全に成長する教育を教会が提供できるようになることを。


私は夢見ます。信徒リーダー、伝道者、牧師となる人を生み出し、育て、整え、また働き人が疲れた時には休息と充電を得られる機関を設けることを。


私は夢を見ます。入曽の地が主の都となることを。私たちの教会が日本宣教、世界宣教に仕えるようになることを。


「青年幻を見、老人は夢を見る。」使徒2:17



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by sayama_church | 2017-09-04 18:53 | 牧師の窓 | Comments(0)

居場所

先日、ジョイスタデイのスタッフの研修で「あんず」という発達に課題を持った子どもの支援をしている施設を訪問いたしました。施設長のYさんは、かねてからその評判を耳にはしていましたが、この道に精通した高い専門性と見識を持ったりっぱな人でした。Yさんがこんなことを言われました。「子どもたちの居場所を作ってあげたい。」

 最近、「居場所」という言葉をいろいろな所で聞きます。「居場所」とは、「自分が受け入れられている」「ここに居ていいのだ」と感じる人間関係を築くことができる場所のことでしょう。そのように解すると、教会こそは「すべての人にとっての居場所」であり、「あらゆる課題をもった人に居場所を提供するところ」でありたいと切に祈らされることです。

 ところで聖書には次のような御言葉があります。「主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。」(詩篇90:1これは、神の人モーセの祈りです。モーセは、神を「私たちの住まい」と言っています。「住まい」とはホームのことで、まさに「居場所」です。近頃ではホームが居場所とは言えない家庭もあるようですが、本来はホームこそがありのままの私たちを受け入れ、愛してくれる「居場所」です。モーセは、神様との関係の中にこそ私たちの居場所があると祈っているのです。

神様との個人的、人格的な関係の中に、私たちを生かす安息と平安、喜びと力があります。皆さんは、そのことを体験されていますか。

*ジョイスタデイは、教会を会場にして行われている児童のための学習支援事業


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by sayama_church | 2017-08-27 20:18 | 牧師の窓 | Comments(0)

疲れ果てた人へ

心が疲れ、渇きを覚えることはないでしょうか。世の中のせわしさ、複雑な人間関係、次から次へとのしかかる仕事の重荷や責任・・・。ゆっくり休みたいと思ったことは、きっとあると思います。

 主イエスは驚くべきことを言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:27

 疲れたときに、レジャーや趣味、娯楽で気分転換をすることは一つの方法ですし、十分な睡眠や温泉などで骨休みすることも必要でしょう。しかし、心が磨り減るような疲れを覚え、魂の渇きを感じるときに、私たちを癒し、魂にいのちを吹き込み、再び立ち上がらせてくださるのは、主イエスだけです。主イエスは、〈いのち〉そのものだからです。

主イエスは、「すべて」と言われました。ですから日本人も異教徒も例外ではありません。また、ただ「わたしのところに来なさい。」と言われました。「身を整えてから」「少しは良い人間になってから」と条件を付けられたのではなくて、行き詰まり、疲れ果て、罪にまみれているならば、そのままで「わたしのところに来なさい。」と言われたのです。

私は、どうしようもなく疲れ、渇くことがあります。しかし、主イエスは、いつも私を生かし、立たせて下さいました。一人でも多くの方が、主イエスを救い主、人生の主として知ることができますように。


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by sayama_church | 2017-08-20 19:47 | 牧師の窓 | Comments(0)

平和

8月になると「平和」という言葉が新聞の紙面を賑わします。815日が終戦記念日だからでしょう。だれもがもう戦争のない「平和」を願っています。殊に今の緊迫した日本を含む東アジア情勢を考えると切実です。

 ところで主イエス・キリストはこのように言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9

 主イエスは、ここで「平和をつくる者は」と言われました。残念ながら「平和を願う人」「平和を求める人」「平和を語る人」は多くいても、「平和をつくる人」は、まれです。

どこに問題があるのでしょうか。何が問題なのでしょうか。聖書は、問題は人間の心の中にあると言っています。自分の利益、立場だけを主張する自己中心が原因であると。もっと率直に言うならば、すべての争いの原因は人間の罪なのだと。

 条約も交渉も平和運動も大切です。そのための話し合い、会議も必要でしょう。しかし、源泉が清くならなければ、いくら川の途中に薬を流しても水は清くならないように、人間の心が変わらなければ、社会も国家も世界も変わりません。教会は、遠回りに見えても人間の罪の現実に光を当て、そこからの救いの道を伝えるイエス・キリストの十字架の福音を伝えつづけなければならないのです。


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by sayama_church | 2017-08-13 19:46 | 牧師の窓 | Comments(0)

聖餐

今日は、インマヌエル狭山キリスト教会との合同礼拝です。今回が2度目です。こうしたことが実現したことは、背後に深い主のご支配があるのだと思って心から感謝しています。

 聖書の中にこのような御言葉があります。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」(Ⅰコリント10:16-17

 言うまでもなく、これは聖餐のことを語っています。初代教会は、聖餐にあずかるたびに、キリストの十字架の血による罪の赦しを確認しただけではなく、主イエスを信じている者は、一つのからだなるキリストに連なっていることを覚えていたのです。一つのからだとは、一つの教会のことです。

 目に見える教会は、数多くあっても霊的には教会は一つです。たとえ信仰に導かれた教団・教派が違っていても、実は私たちは同じキリストに連なっているのです。聖餐は、そのことを思い起こさせてくれます。


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by sayama_church | 2017-08-06 17:28 | 牧師の窓 | Comments(0)

日々の生活では、実に様々なことが起こります。たとえ他人にとってはつまらない、小さな出来事に見えても、当の本人にしてみれば心が揺さぶられたり、沈んだり、悩んだりすることもあるでしょう。平凡な毎日の中にあっても、人は精神的には、暗やみの世界を遍歴することがあります。

オズワルド・チャンバーズは、「見よ、彼が、雲に乗って来られる」(黙1:7を引用して、こんな霊想を述べています。「聖書では、雲はつねに神と関連して出てくる。私たちの個人生活にとって、雲とは悲しみや苦しみをもたらし、神の秩序を乱すように思えるものである。しかし、この雲を通して、御霊は私たちに信仰によって歩くことを教えられる。・・・雲は、神がそこにおられることのしるしである。・・・神は・・・あらゆる雲を通して、私たちの信仰がますます単純になって、ついに幼子のようになることを望んでおられる。そのようになった時、神と私の魂だけが見え、他の人々は影にすぎなくなる。」(オズワルド・チャンバーズ著「いと高き方のもとに」)

 私は、ある時、どうしてこんなに心を乱し、悩ますことが起こるのだろうかと考えたとき、「神は私を訓練しておられる。どんな状況においてもそこに共におられる神を認め、神にのみ目を留めるように。」という思いに至ったことがありました。オズワルド・チャンバーズが言っている通りです。

 信仰者は、どんな時にも主イエスを認め、主イエスに目を向けるべきです。主イエスに目を向けている限り沈むことなく、道は必ず開けます。


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by sayama_church | 2017-07-30 19:59 | 牧師の窓 | Comments(0)

モーセの召命

旧約聖書に出てくるモーセは、私にとってはとても印象深い人物の一人です。これまでの信仰生活において、何度もモーセの生涯から教えられ、考えさせられ、導きを受けてきました。

それで、先日の夏期聖会で講師の梅田牧師がモーセの召命の箇所からお話し下さったときは、自分の献身の原点を確認するような思いとなり、感謝いたしました。モーセは、エジプトの奴隷のヘブル人の子として生まれましたが、不思議な神のお取り計らいによりエジプトの王宮に育ちます。成長した彼は、同胞のヘブル人を救おうと正義感を燃やしますが、挫折して、荒野の羊飼いに身を落としました。しかし、神は失敗、挫折して己の無力さを知ったこのモーセを召したのです。羊の群れを追い、神の山ホレブにやってきたモーセに燃える柴の中から「モーセ、モーセ。」と呼び、「あなたの足のくつを脱げ。」(出エジプト35と仰せられたのでした。

梅田牧師が語られたように、当時の文化において「くつを脱ぐ」ことは、権利、特権を放棄することを意味しました。神はモーセにすべての願望、計画を捨てて、神に信頼して従って来るように求められたのです。

私もかつて、主イエスに従っていきたいと願い、足のくつを脱いだ経験があります。しかし、足のくつを脱いで従い続けて来たかと問われると主に対して申し訳のない気持ちで一杯になります。今一度原点に立ち返り、主に従って歩みたいと祈らされました。


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by sayama_church | 2017-07-23 20:00 | 牧師の窓 | Comments(0)

父なる神

私たちにとりまして、幸福とはどんなことでしょうか。自分の存在が肯定され、喜び受け入れられることではないでしょうか。

もう随分前のことですが、今は天に召された一人の老婦人が教会に見えておられました。若くしてご主人に先立たれ、3人のお子様を女手一つで立派に育てられた方でした。彼女は、祈祷会のあかしの時間になると率先して口を開かれるのですが、たいがい決まって子ども時代の父親との思い出の話でした。当時、まだ若かった私は、80歳を超えた方が、夫や子どものことよりも父親の話をされるのを何か不思議に感じたものでした。しかし、今にして思えば、自分の存在を肯定して、喜び受け入れてくれた父親との思い出が、彼女の心の底に幸せな感情に包まれて、ずっと残っていたのだと分かります。

さて、聖書に次のような御言葉があります。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これは、主イエスがバプテスマ(洗礼)を受けて、水から上がられたときに、天から告げられた声でした。同じ言葉が、主イエスによって罪が赦されて神の子とされた私たちに対して、父なる神が語り掛けておられると云うのが、聖書が告げるメッセージです。

聖書が啓示する神は、私たちの存在を肯定して、喜び受け入れて下さる霊的、理想的な父です。あなたも主イエス・キリストを通してこの方を親しく知ることができますように。


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by sayama_church | 2017-07-20 08:03 | 牧師の窓 | Comments(0)