カテゴリ:牧師の窓( 588 )

平和

8月になると「平和」という言葉が新聞の紙面を賑わします。815日が終戦記念日だからでしょう。だれもがもう戦争のない「平和」を願っています。殊に今の緊迫した日本を含む東アジア情勢を考えると切実です。

 ところで主イエス・キリストはこのように言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9

 主イエスは、ここで「平和をつくる者は」と言われました。残念ながら「平和を願う人」「平和を求める人」「平和を語る人」は多くいても、「平和をつくる人」は、まれです。

どこに問題があるのでしょうか。何が問題なのでしょうか。聖書は、問題は人間の心の中にあると言っています。自分の利益、立場だけを主張する自己中心が原因であると。もっと率直に言うならば、すべての争いの原因は人間の罪なのだと。

 条約も交渉も平和運動も大切です。そのための話し合い、会議も必要でしょう。しかし、源泉が清くならなければ、いくら川の途中に薬を流しても水は清くならないように、人間の心が変わらなければ、社会も国家も世界も変わりません。教会は、遠回りに見えても人間の罪の現実に光を当て、そこからの救いの道を伝えるイエス・キリストの十字架の福音を伝えつづけなければならないのです。


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by sayama_church | 2017-08-13 19:46 | 牧師の窓 | Comments(0)

聖餐

今日は、インマヌエル狭山キリスト教会との合同礼拝です。今回が2度目です。こうしたことが実現したことは、背後に深い主のご支配があるのだと思って心から感謝しています。

 聖書の中にこのような御言葉があります。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。」(Ⅰコリント10:16-17

 言うまでもなく、これは聖餐のことを語っています。初代教会は、聖餐にあずかるたびに、キリストの十字架の血による罪の赦しを確認しただけではなく、主イエスを信じている者は、一つのからだなるキリストに連なっていることを覚えていたのです。一つのからだとは、一つの教会のことです。

 目に見える教会は、数多くあっても霊的には教会は一つです。たとえ信仰に導かれた教団・教派が違っていても、実は私たちは同じキリストに連なっているのです。聖餐は、そのことを思い起こさせてくれます。


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by sayama_church | 2017-08-06 17:28 | 牧師の窓 | Comments(0)

日々の生活では、実に様々なことが起こります。たとえ他人にとってはつまらない、小さな出来事に見えても、当の本人にしてみれば心が揺さぶられたり、沈んだり、悩んだりすることもあるでしょう。平凡な毎日の中にあっても、人は精神的には、暗やみの世界を遍歴することがあります。

オズワルド・チャンバーズは、「見よ、彼が、雲に乗って来られる」(黙1:7を引用して、こんな霊想を述べています。「聖書では、雲はつねに神と関連して出てくる。私たちの個人生活にとって、雲とは悲しみや苦しみをもたらし、神の秩序を乱すように思えるものである。しかし、この雲を通して、御霊は私たちに信仰によって歩くことを教えられる。・・・雲は、神がそこにおられることのしるしである。・・・神は・・・あらゆる雲を通して、私たちの信仰がますます単純になって、ついに幼子のようになることを望んでおられる。そのようになった時、神と私の魂だけが見え、他の人々は影にすぎなくなる。」(オズワルド・チャンバーズ著「いと高き方のもとに」)

 私は、ある時、どうしてこんなに心を乱し、悩ますことが起こるのだろうかと考えたとき、「神は私を訓練しておられる。どんな状況においてもそこに共におられる神を認め、神にのみ目を留めるように。」という思いに至ったことがありました。オズワルド・チャンバーズが言っている通りです。

 信仰者は、どんな時にも主イエスを認め、主イエスに目を向けるべきです。主イエスに目を向けている限り沈むことなく、道は必ず開けます。


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by sayama_church | 2017-07-30 19:59 | 牧師の窓 | Comments(0)

モーセの召命

旧約聖書に出てくるモーセは、私にとってはとても印象深い人物の一人です。これまでの信仰生活において、何度もモーセの生涯から教えられ、考えさせられ、導きを受けてきました。

それで、先日の夏期聖会で講師の梅田牧師がモーセの召命の箇所からお話し下さったときは、自分の献身の原点を確認するような思いとなり、感謝いたしました。モーセは、エジプトの奴隷のヘブル人の子として生まれましたが、不思議な神のお取り計らいによりエジプトの王宮に育ちます。成長した彼は、同胞のヘブル人を救おうと正義感を燃やしますが、挫折して、荒野の羊飼いに身を落としました。しかし、神は失敗、挫折して己の無力さを知ったこのモーセを召したのです。羊の群れを追い、神の山ホレブにやってきたモーセに燃える柴の中から「モーセ、モーセ。」と呼び、「あなたの足のくつを脱げ。」(出エジプト35と仰せられたのでした。

梅田牧師が語られたように、当時の文化において「くつを脱ぐ」ことは、権利、特権を放棄することを意味しました。神はモーセにすべての願望、計画を捨てて、神に信頼して従って来るように求められたのです。

私もかつて、主イエスに従っていきたいと願い、足のくつを脱いだ経験があります。しかし、足のくつを脱いで従い続けて来たかと問われると主に対して申し訳のない気持ちで一杯になります。今一度原点に立ち返り、主に従って歩みたいと祈らされました。


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by sayama_church | 2017-07-23 20:00 | 牧師の窓 | Comments(0)

父なる神

私たちにとりまして、幸福とはどんなことでしょうか。自分の存在が肯定され、喜び受け入れられることではないでしょうか。

もう随分前のことですが、今は天に召された一人の老婦人が教会に見えておられました。若くしてご主人に先立たれ、3人のお子様を女手一つで立派に育てられた方でした。彼女は、祈祷会のあかしの時間になると率先して口を開かれるのですが、たいがい決まって子ども時代の父親との思い出の話でした。当時、まだ若かった私は、80歳を超えた方が、夫や子どものことよりも父親の話をされるのを何か不思議に感じたものでした。しかし、今にして思えば、自分の存在を肯定して、喜び受け入れてくれた父親との思い出が、彼女の心の底に幸せな感情に包まれて、ずっと残っていたのだと分かります。

さて、聖書に次のような御言葉があります。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)これは、主イエスがバプテスマ(洗礼)を受けて、水から上がられたときに、天から告げられた声でした。同じ言葉が、主イエスによって罪が赦されて神の子とされた私たちに対して、父なる神が語り掛けておられると云うのが、聖書が告げるメッセージです。

聖書が啓示する神は、私たちの存在を肯定して、喜び受け入れて下さる霊的、理想的な父です。あなたも主イエス・キリストを通してこの方を親しく知ることができますように。


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by sayama_church | 2017-07-20 08:03 | 牧師の窓 | Comments(0)

主を待ち望む者に

次から次へと生まれる重荷や労苦のために、ものごとが願うように進まないことのゆえに、心が疲れ、すり減り、沈むことはないでしょうか。

聖書にこんな御言葉があります。「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『わたしの道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。』と。・・・若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ40:2731

ここで「ヤコブ」「イスラエル」と呼ばれている人は、明らかに「自分は神に忘れられているのではないか」と思いたくなるような苦しみの中にいます。それで「わたしの道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と言っているのです。私も、青年時代に、思うように道が開かれない状況に鬱鬱として、この御言葉に大変共感を覚えたものでした。しかし、主は「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」(イザヤ40:29お方です。主を待ち望む時に、重荷や困難がむしろ天空高く舞い上がる鷲の翼のように変えられるのです。

心が疲れ、沈むとき、問題や課題を見つめたり、他人と比較したり、自分を嘆いたりするのではなくて、主を待ち望ませていただきましょう。必ず鷲のように翼をかっての上る力が与えられます。


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by sayama_church | 2017-07-10 07:17 | 牧師の窓 | Comments(0)

あなたがたの祈りと御霊の助け

東海聖会の奉仕のためにお祈りをありがとうございました。気軽に引き受けたものの、このところ忙しい日々が続き、期日が迫っても準備がままならず、加えて肉体的な疲労も重なって、主の助けを本当に必要としていましたが、無事に責任を果たすことができました。心ある方々の祈りと御霊の助けのゆえであると深く感じています。

聖書に次のような御言葉があります。「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」(ピリピ1:19)

これは使徒パウロの言葉です。彼は今や投獄の身で、しかも日ごろパウロを妬ましく思っていた一部の伝道者仲間は、パウロの投獄をむしろ喜び、パウロを精神的にも苦しめていました。このような外面的にも内面的にも非常に厳しい中にありながら、パウロはピリピの教会の祈りと御霊の助けによって、一切のことが益になるばかりか、救いになるのだと確信しているのです。パウロは、彼の歩みを支えるのは、心ある信仰者の祈りと御霊の助けであることを深く頷いていたのです。

キリスト者の歩みを支えるのは、教会の祈り(キリスト者同士の祈り)と御霊の助けです。お互いに祈り合い、また御霊の助けを信じて歩んでいきましょう。


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by sayama_church | 2017-07-02 21:33 | 牧師の窓 | Comments(0)

裁く

 私たちは、ついつい他者を批判したり、裁いたりします。何気ない会話でもフッとそうした言葉を口にしてしまうことはないでしょうか。先日、ある会合であからさまではないにしても、暗に他者を批判するような発言をした自分に気が付き、後で悔い改めたことでした。

 主イエス様はこう言われました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」マタイ7:1-3

 ここで主イエスは、人を裁くとき、その裁いた尺度で自分も裁かれることになるから注意しなさいと言われたのです。もし、主にある兄弟のなかにちりのような小さな欠点を見つけたならば、自分にはそれ以上の梁のような大きな欠点があることに気づきなさいとも言われたのです。正しく、また究極的に人を裁くことのできるお方は、主だけです。

 不思議なことですが、人は他者にしたように自分にも返されます。人を量るように自分も量られるのです。ものごとには、私たちが知らない隠された一面があることを弁えて、安易に人を批判することはしまいと思わされたことでした。


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by sayama_church | 2017-06-18 18:09 | 牧師の窓 | Comments(0)

かえっての恵み 

 先週は、日本福音同盟の総会に出席いたしました。日本福音同盟は、聖書は誤りなき神の言葉であると信じる聖書信仰を標榜する教団、教会の交わりの組織ですが、ここ最近は、日本全体の教会の教勢の鈍化、ことに地方教会の疲弊、弱体化の現状から教派、教団を越えての宣教協力が課題として意識されるようになってきました。

 宣教の困難さのゆえに、かえって異なる教派、教団の交わりや協力が深められつつあるのですから、神様のなさることは不思議です。聖書にこんな御言葉があります。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」(ピリピ1:12

 ここで「私の身に起こったこと」とは、使徒パウロの投獄経験です。宣教を使命として、旅から旅をして福音を伝えていたパウロにとっては、自由を奪われたことは大きなマイナスであったはずです。ところが、このことの故に福音はローマの親衛隊全員に広まり、さらに諸教会は強められて大胆に神のことばを語るようになり、かえって宣教は進んだのです。「かえって」の恵み、奇跡です。

 私たちの人生にも、とうてい受け入れがたい心悩ます出来事が起きてくるかもしれません。しかし、そのような時でも、神様のご支配を信じて歩むならば、そのことがなければ味わえなかった恵みをきっと経験することでしょう。


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by sayama_church | 2017-06-11 20:14 | 牧師の窓 | Comments(0)

ペンテコステ礼拝 

 今日は、ペンテコテ礼拝です。主イエスの十字架、復活、昇天の後に神の霊である聖霊が、待ち望んでいた弟子たちに降り、彼らは聖霊に満たされました。このことを記念し、それだけではなく、現在主イエスを信じている私たちにも聖霊が与えられていることを確認し、さらに主イエスに自分自身を明け渡し、捧げるならば、聖霊に満たされる恵みがあることを覚えるときでもあります。

 聖書はこう語ります。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:1920

 私たちを造られた神は、私たちのただ中に住み、親しい関りを持ちたいと願っています。それで、旧約時代には契約の箱を与えて、荒野では幕屋、カナンに定住するようになっては神殿を通して、神の民の中に臨在されました。やがて神の御子キリストは受肉して、人の間に住まわれましたが、十字架の死による罪の贖いと復活、昇天の後には、聖霊において主イエスを信じる一人一人の内に神はお住まいになるようになったのです。これが驚くべき新約の恵みです。

 主イエスを信じているならば、あなたの内にも聖霊が住まわれています。しかし、「聖霊が住まわれる」と「聖霊に満たされる」は違います。主イエスを信じた後も自分勝手に生きることもできます。願わくは、聖霊の宮としての自覚を持ち、神に自分を全く明け渡して生きるキリスト者でありたいものです。そこには大きな祝福があります。


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by sayama_church | 2017-06-04 13:32 | 牧師の窓 | Comments(0)