カテゴリ:牧師の窓( 581 )

裁く

 私たちは、ついつい他者を批判したり、裁いたりします。何気ない会話でもフッとそうした言葉を口にしてしまうことはないでしょうか。先日、ある会合であからさまではないにしても、暗に他者を批判するような発言をした自分に気が付き、後で悔い改めたことでした。

 主イエス様はこう言われました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」マタイ7:1-3

 ここで主イエスは、人を裁くとき、その裁いた尺度で自分も裁かれることになるから注意しなさいと言われたのです。もし、主にある兄弟のなかにちりのような小さな欠点を見つけたならば、自分にはそれ以上の梁のような大きな欠点があることに気づきなさいとも言われたのです。正しく、また究極的に人を裁くことのできるお方は、主だけです。

 不思議なことですが、人は他者にしたように自分にも返されます。人を量るように自分も量られるのです。ものごとには、私たちが知らない隠された一面があることを弁えて、安易に人を批判することはしまいと思わされたことでした。


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by sayama_church | 2017-06-18 18:09 | 牧師の窓 | Comments(0)

かえっての恵み 

 先週は、日本福音同盟の総会に出席いたしました。日本福音同盟は、聖書は誤りなき神の言葉であると信じる聖書信仰を標榜する教団、教会の交わりの組織ですが、ここ最近は、日本全体の教会の教勢の鈍化、ことに地方教会の疲弊、弱体化の現状から教派、教団を越えての宣教協力が課題として意識されるようになってきました。

 宣教の困難さのゆえに、かえって異なる教派、教団の交わりや協力が深められつつあるのですから、神様のなさることは不思議です。聖書にこんな御言葉があります。「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。」(ピリピ1:12

 ここで「私の身に起こったこと」とは、使徒パウロの投獄経験です。宣教を使命として、旅から旅をして福音を伝えていたパウロにとっては、自由を奪われたことは大きなマイナスであったはずです。ところが、このことの故に福音はローマの親衛隊全員に広まり、さらに諸教会は強められて大胆に神のことばを語るようになり、かえって宣教は進んだのです。「かえって」の恵み、奇跡です。

 私たちの人生にも、とうてい受け入れがたい心悩ます出来事が起きてくるかもしれません。しかし、そのような時でも、神様のご支配を信じて歩むならば、そのことがなければ味わえなかった恵みをきっと経験することでしょう。


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by sayama_church | 2017-06-11 20:14 | 牧師の窓 | Comments(0)

ペンテコステ礼拝 

 今日は、ペンテコテ礼拝です。主イエスの十字架、復活、昇天の後に神の霊である聖霊が、待ち望んでいた弟子たちに降り、彼らは聖霊に満たされました。このことを記念し、それだけではなく、現在主イエスを信じている私たちにも聖霊が与えられていることを確認し、さらに主イエスに自分自身を明け渡し、捧げるならば、聖霊に満たされる恵みがあることを覚えるときでもあります。

 聖書はこう語ります。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:1920

 私たちを造られた神は、私たちのただ中に住み、親しい関りを持ちたいと願っています。それで、旧約時代には契約の箱を与えて、荒野では幕屋、カナンに定住するようになっては神殿を通して、神の民の中に臨在されました。やがて神の御子キリストは受肉して、人の間に住まわれましたが、十字架の死による罪の贖いと復活、昇天の後には、聖霊において主イエスを信じる一人一人の内に神はお住まいになるようになったのです。これが驚くべき新約の恵みです。

 主イエスを信じているならば、あなたの内にも聖霊が住まわれています。しかし、「聖霊が住まわれる」と「聖霊に満たされる」は違います。主イエスを信じた後も自分勝手に生きることもできます。願わくは、聖霊の宮としての自覚を持ち、神に自分を全く明け渡して生きるキリスト者でありたいものです。そこには大きな祝福があります。


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by sayama_church | 2017-06-04 13:32 | 牧師の窓 | Comments(0)

信仰生活 

 主イエスが復活されて、ご自身を弟子たちに現わされた主の日を覚えて、本当にようこそ礼拝にお集まり下さいました。私は、木更津の教会で礼拝を捧げていますが、狭山の教会の間中に復活のキリストがお立ちくださり、お一人お一人が主にお会いし、罪の赦し、希望、慰め、癒し、希望、喜び、力を受けることができますようにとお祈りしています。

 信仰生活とは、復活のキリストとともに歩むことです。聖書にこうあります。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」Ⅰテサロニケ5:10

 主イエスの十字架の苦しみと死によって、私たちの罪は赦され、主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(Ⅰコリント1:9)主イエスとともに生きるものとされたのです。ここには、人を生かす大きな喜び、いのち、力があります。

 私は、罪を悔い改めて主イエスを受け入れたときに、主イエスが共にいて下さる喜びと平安を経験しました。残念ながら、その後の歩みにおいては、主イエスご自身ではなくて、主イエスが与えてくださる地上的祝福に心を奪われていた時期が長くありました。そのようなときは、他人と比べて落ち込んだり、時には優越感に浸ったりのアップダウンの激しい歩みだったように思います。

 しかし、やがて信仰者の喜びは、主イエスとともに生きること、そのものにあることが分かるようになりました。さながら、花嫁が、夫が持っている財産ではなく、夫の存在そのものを喜びとするように。復活の主はあなたと共におられます。


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by sayama_church | 2017-05-28 20:15 | 牧師の窓 | Comments(0)

聖書の光

私は、子どもの頃に聖書に触れました。以来、何度も聖書を読み、今も繰り返し読み続けています。そして、最近は聖書の光の中に身を置かなければ、人は幸福になれないとつくづく感じるようになりました。

 先日、娘の一人が私に質問しました。「なぜ、世界には人身売買を行っている国があるの?」その口調には明らかに義憤が見てとれました。「とても悲しいことだね。でも残念だけども日本にも形をかえた人身売買はあると思うよ。」「売春とか?」「そうだね。それだけではないと思うよ。聖書の神様を信じないと人間は、犬や猫、豚や猿と本質的には全く変わらなくなってしまうのだよ。そうなると豚が食肉になるように、人間の臓器を売買の対象にする発想が生まれてしまう。そんな大それたことだけではないよ。聖書の神様を知らないと人間の価値の根拠が見えなくなるから、人は物や道具のようになり下がり、他人を自分の利益や欲望を満たすための手段のように利用してしまうのだよ。」

 聖書は、人間についてこのように言います。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創1:27)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4

 人間は、神と交わりを持つように神に似せて造られ(神ではない)、神に高価で尊い、愛していると言われているところに人間の尊厳の根拠があるのです。人間の価値についての言及だけではありません。聖書を読むと、人間が人間らしく幸福に生きるための光をたくさん与えられるのです。


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by sayama_church | 2017-05-21 20:24 | 牧師の窓 | Comments(0)

母のような神

 今日は、母の日です。母親が健在な方、召された方。母親に対して良い思い出をお持ちの方、そうではない方。色々いらっしゃると思います。

 たまたま新聞の人生相談のコーナーでこんな記事を目にしました。「父はアルコール依存症で、母は私にあたりちらし、つねられる、たたかれるが普通の幼少時でした。4歳で初めて自殺を考え、殺鼠剤を飲もうとさえしました。小さな頃からバカ、ブサイクなどと言われ続け、32歳で結婚。悩んだ末に子どもを産みました。何とか最高の母親になろうと努力して、子どもは優しい人になりましたが、ある日、母から『あなたがいい子育てをしたのは、私がいい親だったからよね。』と言われ、ショックを受けました。今更自分が受けた傷を話して老いた母を苦しめたくもないし・・・。私の人生って何だったのでしょうか?」(2017.5.13朝日新聞「悩みのるつぼ」から抜粋)心が痛む内容です。

 ところで聖書が啓示する神様は、父なる神と呼ばれますが、母親のような面も持っています。次のような御言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15

 前述の投稿者のように母親との関係で傷を持っている人もいるでしょう。しかし、神は、理想的母親のように、「あなたを忘れない。あなたをあわれむ」と言われているのです。


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by sayama_church | 2017-05-14 20:12 | 牧師の窓 | Comments(0)

主にある兄弟姉妹

 5月の連休をどのようにお過ごしになりましたか?ゆっくりと休めた方、仕事に出なければならなかった方、いつもと変わらない日々だった方・・・それぞれだったでしょう。

私と言えば、うっかり(?)と予定を詰めてしまい、5日の子どもの日になってようやく真ん中の子と智光山公園に遊びにいくことができました。長女と末っ子は、家内と高校野球の春の大会の観戦へ。子どもも大きくなると趣味や関心も違ってきて、二手に分かれての一日でした。

ところで、人間にとって、語り合い、笑い合う家族や友人は、とても大切です。私たちは、他者との交わりを必要としています。なぜならば、人は、父、子、聖霊の三位一体の交わりの中に永遠から永遠に存在されている神に似せて造られているからです。神は交わりを愛され、私たちも交わりを必要としています。

神は、私たちのそばに家族、親族、友人を置いてくださいましたが、また、キリストにある兄弟姉妹も与えてくださいました。主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神の子とされたお互いは、キリストにある兄弟姉妹なのです。教会の交わりが聖霊によってますます豊かにされて、お互いを慰め、励まし、高めることができるようにと祈るものです。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12:50


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by sayama_church | 2017-05-10 17:26 | 牧師の窓 | Comments(0)

主イエスの愛

 今日は、私は青森県の三沢で礼拝の奉仕をしています。三沢でも、狭山でも復活の主イエスの豊かなご臨在がありますように、神の御言葉が語られ、聖霊の働きによって集われたお一人お一人に主イエスにある慰め、力、いのち、希望、喜び、確信が与えられるようにとお祈りしています。

 主イエスは、真に恵みと慰めと憐れみに満ちたお方です。それは、三日目に墓からよみがえられた後に、だれにご自身を現わされたかにもよく示されています。聖書はこのように記しています。「また、ケパに現われ、・・・その後、キリストはヤコブに現われ、・・・そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(Ⅰコリント15:58)」

ケパはペテロのことです。彼は、主イエスの一番弟子を自負していましたが、恐れに捕らわれたときイエスを知らないと否んでしまいました。3度も。彼は、肉の弱さのゆえに失敗しました。そして、心は痛み、悔恨の情で一杯でした。ヤコブ。彼は主イエスの肉の兄弟でした。主イエスの人格と業を目の当たりにしますが、あまりにも身近なために信じることができませんでした。パウロ(上記の聖句では「私」)にいたっては、キリストとキリストの教会の熱心な迫害者でした。

よみがえりの主イエスは、こうした失敗した者、不信仰な者、敵対する者にご自分を現されたのです。それは、どんな人も主イエスの恵みから漏れていないとのメッセージです。あなたにも主イエスの愛の眼差しが注がれているのです。


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by sayama_church | 2017-04-30 20:14 | 牧師の窓 | Comments(0)

この方以外に救いはなし

 人は、死に直面するときに何を思うのでしょうか。多くの人の臨終に立ち会った人が、だいたい3つカテゴリーのどれかに属する言葉を口にすると言っていました。

 一つは、「許してください。」罪の意識を抱き、赦しを求めるのだそうです。普段は、意識の底に沈めていた罪責感が、死に臨んだ時にむき出しのありのままの自分に直面して、そうした言葉となって出て来るのかもしれません。もう一つは、「私を覚えていてください。」自分が消滅してしまうのではなく、だれかの記憶の中にでもよいから残りたい。永遠への思いです。三つ目は、「・・・しておけば、よかった。」後悔です。裏を返せば、自分の人生を意味あるもの、価値あるものにしたかった願望です。

 罪の赦し、永遠の思い、人生を意味あるものにしたい願望。これらは、国境と時代を超えて、あらゆる人が根源的に抱えている求めではないでしょうか。神を離れて本来のあるべきところから滑り落ちた人間の姿とも言えます。しかし、これらすべての求めに応えて下さる唯一の方がいます。それがイエス・キリストです。主イエス・キリストは、十字架の血潮によって私たちの罪の赦し、復活によって永遠のいのちを保証し、聖霊によって私たちの人生を確かなものにして下さるのです。私の祖母は「世話になった。」、母は「ありがとう。」と言って、家族が見守る中で召されていきました。そこを支配していたものは、平安と希望でした。

 主イエス・キリストこそが、人間を本当に救ってくださる救い主なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:11


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by sayama_church | 2017-04-24 08:10 | 牧師の窓 | Comments(0)

イースターおめでとう!

 イースターおめでとうございます。イースターは、イエス・キリストの復活を記念し、喜び、お祝いする日です。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かって死に、葬られ、三日目に墓からよみがえられたと聖書は伝えています。

 イエス・キリストの憐れみ深い行いや言葉には教えられ、感動もするが、死んでよみがえられたとは、とても信じがたいと言われる方は多いのではないでしょうか。しかし、使徒パウロは次のように言いました。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」Ⅰコリント15:19

パウロは、初めは熱烈な教会の迫害者でしたが、復活のキリストに出会い、キリストの宣教者となった人物でした。

実は、私は聖書が伝えるキリストの復活に、大きな慰めと希望を見出しています。もし、イエス・キリストの行いや教えに感銘して、彼の生き方に模範を見出すのがキリスト教であるならば、今すぐにでも牧師もクリスチャンであることも止めてしまいたいと思うほどです。そんな程度ならば、何もキリスト教でなくてもよいのです。けれども、キリストの復活に現れた人間がどんなにあがいてもなし得ない、無から有を生み出し、死者をよみがえらせる神の力が、キリストを信じる者にも働いて、自分の力では到底解決できない悩み、問題、行き詰まりをも乗り越えさせて下さるからこそ、私たちは生きていけるのです。そしてこれまでのどんな宗教も教えも解決できなかった罪の死の問題に対しても、キリストの十字架と復活を通して神は赦しと永遠のいのちを与えて解決して下さったのです。

 イースターは人間の絶望に希望を与える本当におめでたい日なのです。


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by sayama_church | 2017-04-16 20:15 | 牧師の窓 | Comments(0)