カテゴリ:牧師の窓( 577 )

聖書の光

私は、子どもの頃に聖書に触れました。以来、何度も聖書を読み、今も繰り返し読み続けています。そして、最近は聖書の光の中に身を置かなければ、人は幸福になれないとつくづく感じるようになりました。

 先日、娘の一人が私に質問しました。「なぜ、世界には人身売買を行っている国があるの?」その口調には明らかに義憤が見てとれました。「とても悲しいことだね。でも残念だけども日本にも形をかえた人身売買はあると思うよ。」「売春とか?」「そうだね。それだけではないと思うよ。聖書の神様を信じないと人間は、犬や猫、豚や猿と本質的には全く変わらなくなってしまうのだよ。そうなると豚が食肉になるように、人間の臓器を売買の対象にする発想が生まれてしまう。そんな大それたことだけではないよ。聖書の神様を知らないと人間の価値の根拠が見えなくなるから、人は物や道具のようになり下がり、他人を自分の利益や欲望を満たすための手段のように利用してしまうのだよ。」

 聖書は、人間についてこのように言います。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創1:27)「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4

 人間は、神と交わりを持つように神に似せて造られ(神ではない)、神に高価で尊い、愛していると言われているところに人間の尊厳の根拠があるのです。人間の価値についての言及だけではありません。聖書を読むと、人間が人間らしく幸福に生きるための光をたくさん与えられるのです。


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by sayama_church | 2017-05-21 20:24 | 牧師の窓 | Comments(0)

母のような神

 今日は、母の日です。母親が健在な方、召された方。母親に対して良い思い出をお持ちの方、そうではない方。色々いらっしゃると思います。

 たまたま新聞の人生相談のコーナーでこんな記事を目にしました。「父はアルコール依存症で、母は私にあたりちらし、つねられる、たたかれるが普通の幼少時でした。4歳で初めて自殺を考え、殺鼠剤を飲もうとさえしました。小さな頃からバカ、ブサイクなどと言われ続け、32歳で結婚。悩んだ末に子どもを産みました。何とか最高の母親になろうと努力して、子どもは優しい人になりましたが、ある日、母から『あなたがいい子育てをしたのは、私がいい親だったからよね。』と言われ、ショックを受けました。今更自分が受けた傷を話して老いた母を苦しめたくもないし・・・。私の人生って何だったのでしょうか?」(2017.5.13朝日新聞「悩みのるつぼ」から抜粋)心が痛む内容です。

 ところで聖書が啓示する神様は、父なる神と呼ばれますが、母親のような面も持っています。次のような御言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15

 前述の投稿者のように母親との関係で傷を持っている人もいるでしょう。しかし、神は、理想的母親のように、「あなたを忘れない。あなたをあわれむ」と言われているのです。


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by sayama_church | 2017-05-14 20:12 | 牧師の窓 | Comments(0)

主にある兄弟姉妹

 5月の連休をどのようにお過ごしになりましたか?ゆっくりと休めた方、仕事に出なければならなかった方、いつもと変わらない日々だった方・・・それぞれだったでしょう。

私と言えば、うっかり(?)と予定を詰めてしまい、5日の子どもの日になってようやく真ん中の子と智光山公園に遊びにいくことができました。長女と末っ子は、家内と高校野球の春の大会の観戦へ。子どもも大きくなると趣味や関心も違ってきて、二手に分かれての一日でした。

ところで、人間にとって、語り合い、笑い合う家族や友人は、とても大切です。私たちは、他者との交わりを必要としています。なぜならば、人は、父、子、聖霊の三位一体の交わりの中に永遠から永遠に存在されている神に似せて造られているからです。神は交わりを愛され、私たちも交わりを必要としています。

神は、私たちのそばに家族、親族、友人を置いてくださいましたが、また、キリストにある兄弟姉妹も与えてくださいました。主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神の子とされたお互いは、キリストにある兄弟姉妹なのです。教会の交わりが聖霊によってますます豊かにされて、お互いを慰め、励まし、高めることができるようにと祈るものです。

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」マタイ12:50


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by sayama_church | 2017-05-10 17:26 | 牧師の窓 | Comments(0)

主イエスの愛

 今日は、私は青森県の三沢で礼拝の奉仕をしています。三沢でも、狭山でも復活の主イエスの豊かなご臨在がありますように、神の御言葉が語られ、聖霊の働きによって集われたお一人お一人に主イエスにある慰め、力、いのち、希望、喜び、確信が与えられるようにとお祈りしています。

 主イエスは、真に恵みと慰めと憐れみに満ちたお方です。それは、三日目に墓からよみがえられた後に、だれにご自身を現わされたかにもよく示されています。聖書はこのように記しています。「また、ケパに現われ、・・・その後、キリストはヤコブに現われ、・・・そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。」(Ⅰコリント15:58)」

ケパはペテロのことです。彼は、主イエスの一番弟子を自負していましたが、恐れに捕らわれたときイエスを知らないと否んでしまいました。3度も。彼は、肉の弱さのゆえに失敗しました。そして、心は痛み、悔恨の情で一杯でした。ヤコブ。彼は主イエスの肉の兄弟でした。主イエスの人格と業を目の当たりにしますが、あまりにも身近なために信じることができませんでした。パウロ(上記の聖句では「私」)にいたっては、キリストとキリストの教会の熱心な迫害者でした。

よみがえりの主イエスは、こうした失敗した者、不信仰な者、敵対する者にご自分を現されたのです。それは、どんな人も主イエスの恵みから漏れていないとのメッセージです。あなたにも主イエスの愛の眼差しが注がれているのです。


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by sayama_church | 2017-04-30 20:14 | 牧師の窓 | Comments(0)

この方以外に救いはなし

 人は、死に直面するときに何を思うのでしょうか。多くの人の臨終に立ち会った人が、だいたい3つカテゴリーのどれかに属する言葉を口にすると言っていました。

 一つは、「許してください。」罪の意識を抱き、赦しを求めるのだそうです。普段は、意識の底に沈めていた罪責感が、死に臨んだ時にむき出しのありのままの自分に直面して、そうした言葉となって出て来るのかもしれません。もう一つは、「私を覚えていてください。」自分が消滅してしまうのではなく、だれかの記憶の中にでもよいから残りたい。永遠への思いです。三つ目は、「・・・しておけば、よかった。」後悔です。裏を返せば、自分の人生を意味あるもの、価値あるものにしたかった願望です。

 罪の赦し、永遠の思い、人生を意味あるものにしたい願望。これらは、国境と時代を超えて、あらゆる人が根源的に抱えている求めではないでしょうか。神を離れて本来のあるべきところから滑り落ちた人間の姿とも言えます。しかし、これらすべての求めに応えて下さる唯一の方がいます。それがイエス・キリストです。主イエス・キリストは、十字架の血潮によって私たちの罪の赦し、復活によって永遠のいのちを保証し、聖霊によって私たちの人生を確かなものにして下さるのです。私の祖母は「世話になった。」、母は「ありがとう。」と言って、家族が見守る中で召されていきました。そこを支配していたものは、平安と希望でした。

 主イエス・キリストこそが、人間を本当に救ってくださる救い主なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:11


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by sayama_church | 2017-04-24 08:10 | 牧師の窓 | Comments(0)

イースターおめでとう!

 イースターおめでとうございます。イースターは、イエス・キリストの復活を記念し、喜び、お祝いする日です。イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に架かって死に、葬られ、三日目に墓からよみがえられたと聖書は伝えています。

 イエス・キリストの憐れみ深い行いや言葉には教えられ、感動もするが、死んでよみがえられたとは、とても信じがたいと言われる方は多いのではないでしょうか。しかし、使徒パウロは次のように言いました。「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」Ⅰコリント15:19

パウロは、初めは熱烈な教会の迫害者でしたが、復活のキリストに出会い、キリストの宣教者となった人物でした。

実は、私は聖書が伝えるキリストの復活に、大きな慰めと希望を見出しています。もし、イエス・キリストの行いや教えに感銘して、彼の生き方に模範を見出すのがキリスト教であるならば、今すぐにでも牧師もクリスチャンであることも止めてしまいたいと思うほどです。そんな程度ならば、何もキリスト教でなくてもよいのです。けれども、キリストの復活に現れた人間がどんなにあがいてもなし得ない、無から有を生み出し、死者をよみがえらせる神の力が、キリストを信じる者にも働いて、自分の力では到底解決できない悩み、問題、行き詰まりをも乗り越えさせて下さるからこそ、私たちは生きていけるのです。そしてこれまでのどんな宗教も教えも解決できなかった罪の死の問題に対しても、キリストの十字架と復活を通して神は赦しと永遠のいのちを与えて解決して下さったのです。

 イースターは人間の絶望に希望を与える本当におめでたい日なのです。


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by sayama_church | 2017-04-16 20:15 | 牧師の窓 | Comments(0)

主が私たちのために死なれたのは

今日から受難週を迎えます。受難週は、キリストの復活を記念するイースターまでの一週間で、キリスト者は十字架の苦しみを覚えて、格別に敬虔な思いでこの週を過ごすことを習慣としてきました。私が学んだ神学校(全寮制)では、受難日(キリストが十字架に磔にされた金曜日)には、朝食は無く、午前中はそれぞれ密室で聖書を読み、祈りと黙想のときを持つように指導されました。

聖書はキリストの受難の目的について次のように語っています。「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(Ⅰテサロニケ5:10)

 キリストが苦しみを受け、十字架で死なれたのは私たちの罪の贖いのためでしたが、ここでは「私たちが主とともに生きるためである」と記されています。キリストの十字架による救いは、罪の赦しであり、永遠のいのちを受けることであり、神の子とされることでありますが、別の言い方をするならば「私たちが主とともにあるようになること」、すなわち「キリストが私たちとともにいてくださること」なのです。主がともにいてくださることは、救いです。そして信仰生活は「主とともに生きること」なのです。

この受難週、主のご臨在を格別に覚えながら過ごす日々でありたいと願うことです。そしてまた、私たちの人生が、喜びの日も悲しみの日も、順調なときも逆境のときも、心躍るような日々も平凡な日々も、いかなるときにもともにおられる主を覚え、確認しながら歩むものでありますように。それが「敬虔のために自分を鍛錬」(Ⅰテモテ4:7することでもあります。

 


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by sayama_church | 2017-04-09 20:12 | 牧師の窓 | Comments(0)

神との交わり 

 聖書が告げる福音とは何でしょうか。それは、主イエスの恵みによって神との交わりに入れられることです。具体的には、神の子とされることです。主イエスが実子であるならば、私たちは養子として神の子となるのです。このことが、私たちの努力や善行よるのではなくて、主イエスの十字架による罪の贖いによるので、福音なのです。

 使徒ヨハネはこう言いました。「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(Ⅰヨハネ1:3

 神との交わりがそんなに素晴らしいことのなでしょうか。実は、多くの人が気づいているように人間の幸いは、物事や出来事にではなく、他の人格との交わりのなかにあります。人間はそのように造られているのです。金持ちになったり、有名になったりしても、それだけでは人間は幸いになれない理由はそこにあります。たとえ、物事や出来事に恵まれていなかったとしても、家族とか親しい友人など、愛する人がいるならば幾らかでも幸福を感じるはずです。

そして他者との関係の中で、最も生命的なものは、神との関係です。たいていの人は、横の関係すなわち人と人の関係は理解できますが、縦の関係すなわち神との関係は知りません。しかし、神との関係が整えられ、神との交わりをもって生きるようになるとき、その人は真に生きた者になります。神のいのちに生かされるのです。神との交わりの中に人を生かすいのちがあるからです。

信仰は「教えを守る」という教条的なものではありません。神との親しい交わりに本質があるのです。神との交わりの中に日々歩ませていただきましょう。


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by sayama_church | 2017-04-03 21:50 | 牧師の窓 | Comments(0)

神の御言葉

 3月が終わろうとしています。振り返りますとこの23か月はとても忙しい日々を過ごしました。実際は、所々で暇を見つけて休んではいるのですが、次から次へと出席しなければならない会議、決定しなければならない案件があり、落ち着かない日々でした。考えてみますと、教会、教団、また私が関わっている超教派の働きにおいて、年初にあたって昨年度の総括と新年度の計画を立てなければならないわけで、当然といえば当然だったのかもしれません。4月からは通常のペースに戻れるのではと少しホッとしています。

 こうした中で、自分が最も大切にしなければならない仕事は何なのか、主から委ねられた使命、そして、そのために与えられている賜物は何かについて、改めて考えさせられ、気づかされたことがありました。それは、人々の心に寄り添い、そして神の御言葉を語るということです。主イエスが、民の痛みと苦しみを見ながら神の国の福音を語ったように、私も神の御言葉を取り次ぎ、語らなければならない、そのためにこそ召されたのだと思わされました。

 聖書にはこう記されています。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:3人間は、肉体の必要を満たすことだけでは人らしく生きられない霊的な面があります。神の御言葉を聴いて初めて真に生きた者となるのです。牧師は、自ら神の御言葉を聴いて、それに生かされながら、人々に神の御言葉を語らなければなりません。

 行事や組織の運営に汲汲として本来の使命の本質を見失わないように気を付けながら、これからも主にお仕えしたいと願わされたことです。


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by sayama_church | 2017-03-29 13:07 | 牧師の窓 | Comments(0)

キリストに出会う

 クリスチャンは時々「キリストに出会う」という言葉を使います。それはどういうことなのでしょうか。

 聖書の中にペテロという人物がでてきます。彼は漁師でした。ある時、魚一匹とれずに失意に沈んで湖で網を洗っているところにイエスが現れ、こう言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」(ルカ5:4当然、ペテロは答えました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」(同5:5それでもペテロは、半信半疑で網をおろしてみると、何と大漁のために網が破れそうになったのです。そのときペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8

 実は、ペテロはこの時に初めてイエスに出会ったのではありませんでした。既に、イエスはペテロの家に行ったことがあり、しゅうとめの熱病を癒しています。ペテロは、これまでにも何度もイエスに会ったことがあり、感謝、尊敬、好意の念も抱いていましたが、真にイエスに出会ってはいませんでした。彼がイエスに本当の意味で出会ったのは、イエスに生ける神を感じ、生ける神の前に立つ自分の罪深さに気が付いたときでした。

 キリストとの出会いは、自分の思いと力に頼って生きることに行き詰まり、神の前に立つ自分の罪深さに気が付いたときに起こるのです。そのとき、イエスが何者であるかが分かるのです。それは、イエスが罪を痛み悲しみ者に断罪ではなく赦しを与え、ペテロに「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(同5:10と語られたように、神の恵みと力によって生きる新しい人としての将来と希望を与えて下さるキリスト(救い主)であることが分かることなのです。


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by sayama_church | 2017-03-19 23:02 | 牧師の窓 | Comments(0)