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わたしを愛しますか


 主イエス様の復活を記念するイースターを越えての歩みをしています。私たちは、よみがえりのイエス様を身近に覚えながら、毎日を過ごしているでしょうか。
 聖書の中に、よみがえられたイエス様とペテロとの大変興味深い会話があります。場所は、ガリラヤの湖です。そこは、イエスが十字架に掛かられる前夜、「わたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」(マタイ26:32)と言われたその場所でした。
 夜明け頃、弟子たちが漁をしている湖の岸辺にイエスは立たれました。「あれは主だ。」とのヨハネの声に、ペテロはあわてて上着をまとい湖に飛び込みました。やがて他の弟子も加わり、皆で食事をとった後に、イエスはペテロにこう語り掛けました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」しかも、3度。それは、まるで3度イエス様を知らないと言って、裏切ったペテロの心の傷を癒すようでした。
 この「あなたはわたしを愛しますか。」という主の質問は、クリスチャン生活を支えているものが何かをはっきりと教えています。それは、イエスに対する愛です。クリスチャンとは、イエスに愛されていることに心震え、イエスを愛する人です。
 毎日の平々凡々とした繰り返しの中でも、慌しく忙しい営みの中でも、私たちを支え、人生の方向を定めるものは、「わたしは、イエスを愛する。」という一点です。
 私たちは、イエスによって罪が赦され、魂が救われ、心に平安をいただきました。そしてイエスを愛しているのです。そして、この愛するイエスと共に人生の旅路を歩んでいるのです。
                             (2006.4.23)
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by sayama_church | 2006-04-28 21:57 | 牧師の窓 | Comments(1)

キリストの復活


 イースターを迎えました。日本では、クリスマスほど知られていませんが、教会にとりましては、イースターはクリスマス以上に大きな意味を持っています。
 イースターは、キリストの復活を記念した日です。そして、キリストの復活がなければ、教会もキリスト教徒も存在しませんでした。
 キリストの復活に対して、様々な人が疑義を唱えます。疑義を唱える人は、まだ良いのかもしれません。たいていの人は、その事実にまともに向き合わずに、伝説かおとぎ話のように考えて、聞き流します。
 しかし、キリストの十字架の死によって、弟子達は、官憲の手が自分達にも及ぶのではないかと恐れ、ブルブル震えながら身を隠していたのです。一番弟子のペテロは、キリストが捕縛されたときに、彼を知らないと3度も否認しました。ところが、彼らは、復活のキリストに出会い、聖霊の力をいただき、変わります。殉教を恐れずに、キリストの復活を語るのです。教会はこうして誕生しました。
 もしキリストの復活が、でっち上げであったとしたら、彼らはキリストを伝えるために命を賭けはしなかったでしょう。けれども、ペテロもヤコブもまた多くのキリストの弟子もこのために殉教しました。また、もし復活のキリストが、弟子達の幻想だとしたら、一度に500人以上の人たちに同時に現れたことは説明できないでしょう。パウロはこう言っています。「ケパに現われ、それから十二弟子に現れ・・・その後、キリストは五百人以上兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。」Ⅰコリント15:5,6
 キリストは、復活されたのです。聖書の預言の通りに。   (2006.4.16)
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by sayama_church | 2006-04-18 09:01 | 牧師の窓 | Comments(0)

主は生きておられる


 教会堂に住んで丸6年。この度、感謝なことに教会のすぐそばに住まいを得て、引越をしました。まだ、片付けも十分ではなく、何となく落ち着かない毎日です。
 兼ねてから、教会堂の構造上、牧師の住まいを別にした方が、より教会活動が活発に出来るのではないかと思っていました。また家族のことを考えると現状のままではいつまでも続かないと感じていました。そんな時に、教会前の中古住宅が売りに出されました。
 すべての手続きを終えた時、私は一つのことを思い出しました。それは、今から15~6年前の神学校時代のことです。大学卒業後、しばらく会社勤めをし、それから献身をしましたので、神学校に入学した時の私の年齢は、最上級生より上でした。神学校は全寮制でした。寮生活では下級生は上級生の指導に従うことになっていましたので、高慢な私は、随分とへりくだることを学ばされました。時にはもっと早く献身していればと思ったこともありました。また、授業で聖書や神学を学んでいくうち、その世界の広さと深さに驚き、自分はとてつもなく回り道をしたように思えたこともありました。
 けれども、今回の購入にあたり、ローンを組めたのは、実は会社に勤めていた頃の貯蓄を頭金に出来たからです。それがなければ、月々に返済可能なローンを組むことはできませんでした。神学生時代には、随分と悔いたサラリーマン時代でした。でもまさかこんなときになって助けになるとは思いませんでした。主は生きておられる、そう深く感じました。  
「すべてのことを働かせて益としてくださる。」ローマ8:28     (2006.4.9)
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by sayama_church | 2006-04-10 21:34 | 牧師の窓 | Comments(0)

心を一つにして


 どんな世界でも心を合わせてことは、とても大切なことです。こんな話を聞いたことがあります。昔の話しです。ある暮らし向きが一向に良くならない家がありました。一人一人はとても善良で、良く働くのですが、生活は楽になりませんでした。ところが、もう一軒の家がありました。こちらも大変貧しい家でした。ところが、家族が心を合わせ、少しずつ豊かになり、やがてりっぱな家も建ったそうです。どこが違ったのでしょうか。先の家は、一人一人は素晴らしいのですが、点々ばらばらで、互いに協力し合うことをしませんでした。
 一人一人がたとえ小さな力しか持っていなくても、またたとえわずかの人数であっても、心を合わせれば、大きな働きをすることができるものです。
 教会のおいても、同じことが言えます。教会に集う一人一人が、たとえ信仰がりっぱであっても、またたとえ賜物が豊かであっても、もし心を一つにして主に仕えることをしなければ、主に喜ばれる教会の働きをすることはできません。
 教会の原点は、使徒の働きに出てくる初代教会です。教会はいつでも初代教会に帰らなければなりません。そして初代教会は、皆が心を一つにしていました。
 聖霊は、私たちの心を一つにします。罪深い自我すなわち肉は、お互いをバラバラにします。
 愛する兄姉の皆さん、聖霊様に己を明け渡しましょう。聖霊様のご支配の下に自分を委ねましょう。そして肉によって自己を主張することは止め、心一つにしましょう。そのとき、神の栄光が現れます。そして力強い神様の働きが進むのです。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、・・・」使徒2:46       (2006.4.2)
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by sayama_church | 2006-04-06 21:21 | 牧師の窓 | Comments(0)

未来を見つめて


 先日、李チョンヒ宣教師が、苦しい闘病の末に天に召されました。44歳の若さでした。日韓の痛ましい過去の歴史を乗り越えて、日本の国を愛して来日され、これからの活躍が期待されたときの死でした。また、昨日は、教会員の家族の方がお亡くなりになりました。ことあるごとに教会にお見えくださり、その律儀な、優しいお人柄がとても印象的でした。労を惜しまず、家族を愛した70年のご生涯でした。 
  人の訃報に接することは、とても悲しいことです。身近な人にとりましては、「なぜ?」「どうして?」と問いたくなります。
 李宣教師のご葬儀に参列したとき、そこで大変心に触れる言葉に出会いました。式の最後に、一人の老練な韓国人宣教師が祈りのために前に進み出られ、悲しみをこらえながら、こう祈り始めました。「私たちは、《今に》ではなく、《未来》に目を留めます。・・・・」絞り出すような声でした。この言葉に、私は深い慰めを受けました。天来の声のように心に響きました。
 そうです!キリストを信じる私たちは、現在だけではなく、未来に目を据えるのです。なぜでしょうか。神様にとっては、未来もいつも現在だからです。
 今の現実を見ると、悲しみと絶望だけということがあります。なぜこんなことがおきたのだろうかと、意味を見出せないことがあります。しかし、キリストを見上げて下さい。キリストを信じて下さい。そして、今だけではなく、未来の希望に目を留めるのです。キリストは、今の暗黒や不条理を、未来には意味あるものとして実を結ばせて下さることのできるお方なのです。

「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ローマ10:11
(2006.3.26)
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by sayama_church | 2006-04-01 22:09 | Comments(0)

自由なのです


 3月は卒業式のシーズンです。わが家でも次女が幼稚園の卒園となりました。式に参列して、普段あまり見たことのない緊張した顔のわが子を見た時、微笑ましく思ったり、大丈夫かと心配したりもしました。幾分、他の子よりも幼いように感じられますが、この子なりに成長しているのだとも感じたことです。
 普通、親は子どもが精神的に経済的に社会的に自立した人になるように願い、教育するものだと思いますが、信仰の世界においても同じようなことが言えます。信仰者は、成長すると自分に対する神の愛を知るが故に、自発的に、自由意志をもって、心から神を愛し、神に仕えることを喜ぶようになります。信仰は、恐れや義務感に支配されたり、外側から強制されるべきではありません。ましてや人に支配されるべきではありません。
 悲しい話を聞きました。ある教会で、牧師の権威があまりにも強すぎて、信者が精神的に牧師に従属するようになり、自分で物事を考え、決めることができなくなってしまいました。牧師の言うことに服従することによってしか、安心感をもつことができなくなりました。これは、聖書の道ではありません。
 私たちは、神の前に一人の自立した存在であることを自覚しなければなりません。そして、自分の意志をもって、神の声に答えていく存在なのです。以前は、罪の奴隷でした。人の顔を恐れ、人の声に流されていたものでした。しかし、今は、聖書を読み、神に祈りを捧げ、自分で物事を考え、神の御旨を確信して立ち、行動していくものとなったのです。神以外の何者にも支配されてはならないのです。

「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」ヨハネ8:36

(2006.3.19)
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by sayama_church | 2006-04-01 21:58 | Comments(0)

試みにある人へ

 苦しみや試練は出来たら避けたいものです。イエスも「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」(マタイ6:13)と祈るようにと勧めています。それでも、主が、私たちが試みに合うことを許されるのは、どうしてなのでしょうか。
 私の母がこんなことを話してくれたことがあります。母は、若かりし頃、弟によく伝道したそうです。イエスを信じて、救われ、心が燃えていたのでしょう、母は熱心に福音を語りました。けれども叔父は、心を開こうとしませんでした。むしろ「姉さんの信仰は、いやだ。」と言ったそうです。母は、父とともに、愛知県の片田舎で開拓伝道をしましたが、やがて大きな試みを受けて、何もかもを愛知に残し、傷心で上京しました。ところが、その母が叔父に面し、イエス・キリストを語った時、「今の姉さん、いいね~。」と言ったそうです。
 私たちは、成功の絶好調のときよりも、試みと悲しみの時に神様の近くにいると言うことがあります。心が砕かれ、へりくだっているからでしょう。「主は心の打ち砕かれた者の近くにあられ、たましいの砕かれた者を救われる」(詩篇34:18)とあります。
 試練や悲しみの中をと通ることは辛いことです。けれども、そこを通ることによって初めて知る恵みの世界があります。悲しみと涙の人であったイエスがそこにいて下さるのです。そしてイエスにあって私たちの人格は深められ、信仰は根が張った堅実なものとされ、何よりもイエスの聖さにあずかるのです。

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」へブル12:11
                               (2006.3.12)
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by sayama_church | 2006-04-01 21:50 | 牧師の窓 | Comments(0)