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いつまでも残るもの


 ある人がこんなことを言いました。「Nさんは、とてもよい人だけれども、時々、話の端端で自慢するのよね。子どもを私学に通わせたとか。あれほどの家は建てられないとか。家族をどこそこに連れて行ったとか。どうして何だろう。・・・」
 私は、同じ男性として、また以前サラリーマン生活をしたこともある者として、少しNさんの気持ちがわかるような気がしました。会社勤めは、いつも楽しいというわけではありません。朝から晩まで精を出し、あくせくし、時には我慢を強いられます。恐らく大概の人は自分の苦労の対価をどこかに見出したいと思うはずです。それは自分の存在の意義、生きていることの意味を確認することにもなるからです。Nさんは、「これだけのお金を稼げた。」「家族にこれだけのことをして上げた。」「人にこれほど評価された。」・・・こうしたことに自分の労の結果と価値を見つけ、自分を慰めていたのだと思います。
 けれども、自分の生きているあかしを、物や目に見えることに置くことは、結局は虚しいことになります。なぜならば、それらのものは、過ぎ去り、消え去るからです。聖書は、こう言っています。
「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」Ⅰコリント13:13,14:1
 りっぱな家を建てたことも、高い地位についたことも・・・過ぎ去っていきます。しかし、信仰と希望と愛はいつもでも続きます。人々の心に残り、影響を与え、そして永遠に神の前に覚えられるのです。それは気高い人生です。過ぎ去るものに価値を置くのではなく、いつもでも続くものを大切にしたいものです。
                        (2006.5.28)
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by sayama_church | 2006-05-31 15:45 | 牧師の窓 | Comments(0)

惑わされないで


 今、世間では「ダ・ヴィンチ・コード」という映画が、盛んに宣伝されています。同名のミリオンセラー小説の映画化だそうです。
 私は、小説を読んでいませんが、ある牧師によると、イエスがマグダラのマリヤと結婚して、その子孫は続いていたとされ、ダ・ヴィンチはそのことを自分の絵に暗号化して残したということだそうです。根拠は、外典の中の「伴う、一緒にいる。」というギリシャ語を、「連れ合い、伴侶者」とも訳せることから来ているそうです。
 しかし、この言葉は、聖書は言うに及ばず、外典においても「妻、伴侶者」の意味で使われている例はなく、「伴侶者」を表すときは別のギリシャ語が使われているので、「マグダラノのマリヤはイエスの連れ合いであった。」と訳すよりも、「マグダラのマリヤはイエスに付き従っていた。」とする方が論理的に正しいそうです。
 また、最近、「ユダの福音書」が発見されたこともニュースになりました。この書物には、ユダがイエスの第一弟子であり、イエスがユダに「あなたが犠牲になって私を裏切ってほしい。」頼んだとあるそうです。しかし、この書物の存在は、既に教会史の中では知られており、2世紀過ぎに、グノーシス主義の影響で生まれた異端文書です。
 それにしてもこうしたことが非キリスト教国の日本で大きな話題になることは少し不思議に感じます。それは聖書が真理であり、ゆるぎない神の言葉であることの裏返しであり、人々が聖書に関心をもっていることの表れなのかもしれません。
  
「俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。」
                                  Ⅰテモテ6:20
                     (2006.5.21)
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by sayama_church | 2006-05-23 10:45 | 牧師の窓 | Comments(1)

母の日によせて


 今日は、母の日です。母の日は、教会から始まったことをご存知でしょうか。
 アメリカのウエスト・バージニア州の小さな教会にジャービスという婦人がいました。彼女は、教会学校の先生で、ある日、子どもたちに「あなたの父と母を敬え」という聖書を教え、「皆さんも、何かお母さんに感謝をする方法を考えてみて下さい。」と語りました。娘アンナはそこに生徒としていました。後年、ジャービス夫人は亡くなり、アンナは母の記念会を開きました。5月の第二日曜日です。彼女はかつての教会学校での母の言葉を思い出し、どのようにして母への感謝を表そうかと考え、母の大好きだったカーネーションで部屋を飾りました。そして、帰りに一人一人にカーネンションを手渡したのです。それは不思議と参列者の心を打ちました。早速、教会は母の日を設け、それがアメリカ、世界へと広がったのです。
 人の心に寄り添うことは美しいことです。そこにはいつも温かいものが流れ、人の心を癒します。アンナの行為は亡き母の心を考え、それに寄り添おうとしたことから生まれました。人を愛するとはその人の心に寄り添うことかもれません。
 ところで、私たちの心に一番寄り添うことの出来る方は、だれでしょうか。聖書は、こう言っています。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。」 へブル4:15 
 キリストこそ、私たちの心に最も近く寄り添って下さる方です。そしてこのキリストの恵みを知れば知るほど、他者の心に寄り添う人となるのです。
                             (2006.5.14)
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by sayama_church | 2006-05-17 23:53 | 牧師の窓 | Comments(0)

幸せであること


 大型連休が終わろうとしています。どのように過ごされたでしょうか。普段出来ないことをこのときとばかりなさった方、ゆっくりと身体を休めた方、家族とともに外出、旅行などを楽しんだ方、その一方で休みなどろくにとることもできずに、相変わらずに仕事に精を出さなければならなかった方、一人で過ごさなければならなかった方もいるかもしれません。様々だったと思います。
 ところで、人間の幸せの本質はどこにあるのでしょうか。
 私の恩師が、こんなお話をして下さったことがあります。大変、古い話です。一人の女中さんがいました。田舎から奉公にきていたのでしょうか、彼女は一人ぼっちでした。心の奥深いところで、寂しさ、孤独を感じていました。ところが、彼女はイエス・キリストに出会い、彼を受け入れました。そのときから、彼女の心は幸福になりました。彼女は、こう言ったそうです。
「私は、ひとりではない。私には父なる神、子なる神、聖霊なる神がいつも一緒にいて下さる。」
 ジョン・ウエスレーと言う、大変すぐれたキリスト教指導者がいました。18世紀の人です。メソジスト運動を起こし、偉大な説教者であり、リバイバリストでした。その生涯の功績と後代に残した影響は計り知れないものがあります。しかし、彼がその生涯を閉じようするときに語ったことは、これでした。
「最も良きことは、神が共におられることだ。」
 私たちの幸せは、実は環境にあるのではありません。ましてや環境が変わることによって幸せになるのでもありません。神が共にいて下さるという事実にあるのです。

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。」詩篇74:28
  
                              (2006.5.7)
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by sayama_church | 2006-05-10 23:45 | 牧師の窓 | Comments(0)

自分を生かす道


 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24
 冒頭の聖句は、私の恩師がしばしば口にされ、教えられたものです。そして、いざという時、私の心の深いところに通ってくる御言葉です。
 キリストがここで語っているのは、ご自分の十字架と復活です。十字架と復活は、聖書の一番の大きなテーマであることは言うまでもありません。キリストは、私たちの罪のために十字架に架かられて死なれたこと。そして3日目に死者の中からよみがえられたこと。このことを信じるならば、私たちは罪が赦され、永遠の命が与えられます。
 しかし、この御言葉は、もう一つの真理を教えています。それは、「もし死ねば生きるようになる。」ということです。残念ながら、現代人は「自分が生きよう。」「自分を生かそう。」と自分に固執するあまり、かえって生きることができないでいます。しかし、実は、自分を本当に生かす道は、自分が死ぬことにあります。
 自分が死ぬこと以外に、豊かな命に生きる道はありません。多くの結実を結んだ人の生涯は、みなそうです。
 韓国の一人の牧師が開拓から始めて、苦労に苦労を重ねて、りっぱな教会を築かれました。その教会は、彼の人生そのものでした。ところが、神は、彼に言われました。「その教会を他の人に委ね、あなたは日本に宣教に行きなさい。」それは、試みでした。しかし、彼はそれに従いました。そして、今、彼は日本で尊く用いられています。死ぬことによって、あなたは生きるのです。 (2006.4.30)
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by sayama_church | 2006-05-07 00:05 | 牧師の窓 | Comments(0)