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人生と山登り

 先週、末の子の幼稚園の山登り遠足があり、ボランテイアのお手伝いとして参加しました。高麗駅で降りて、日和田山に向けて出発。「あそこまで行きますよ。」と先生に指差された電波塔は、本当にあんなところまで登れるのだろうかと思うほど、遠く感じられました。しかも、こんな小さな幼児が・・・。
 途中で、男坂(かなりきつい岩場の道)と女坂(登りやすいが、それでもそれなりに勾配のある道)に別れます。年中と年長組は男坂、年少は女坂に。元気な子もハンディのある子も、みんな思い思いの歩調で登っていきました。私は、最後尾について、遅れがちな子を励ましたり、手をつないだり。へたり込んだり、駄々をこねたりする子もいましたが、全員が自分の足で登り切ったのには驚きました。帰りは、さすがに疲れて眠ってしまい、おんぶされる子や園バスに乗せられる子もいました。けれども、無事に駅に到着し、あらためて後ろを振り返ると、あの電波塔が目に入り、「よくぞ、あんなところまで行けた。」と感じることひとしおでした。
 ところで人生についても同じことが言えないでしょうか。先のことを考えると、なさなければならないこと、乗り越えていかなければならない課題のために、「自分にはできない。」と途方に暮れることがあります。あきらめたり、へたり込みたくなることがあります。
 でも、一歩一歩、真実に、忠実に歩んでいくのです。私たちには、天の都という人生のゴールがあるのです。やがて、自分の歩んできた道を振り返るときがきます。そのとき、きっと「よくぞここまで来れたものだ。」と感じることでしょう。
 「ところが、神の恵みによって、今の私になりました。」Ⅰコリント15:10
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by sayama_church | 2006-10-28 00:34 | 牧師の窓 | Comments(1)

必要とされる

 先週から家内がパートの仕事を始めました。保育の仕事です。毎朝、子どもたちを学校に送り出して、自分も自転車に乗って出かけていきます。帰ってくると疲れてはいないかと思い、声を掛けると、「疲れた。」と言いながら、顔は生き生きとしています。思わず、「お母さん、若返ったね。」と言ってしまいました。すると彼女は、「自分が必要とされていると感じるからよ。」と答えてくれました。
 なるほどと思いました。自分が必要とされていると感じることはすばらしいことです。生活に張りと充実感が生まれます。私たちの肉親、家族、家庭は、私たちを必要としています。仕事、職場、友人、教会も私たちを必要としています。だからこそ、がんばれるし、張り合いがあるのです
 でも、ここでちょっと考えてみたいと思います。私たちを必要としているのは、果たしてこうした人たちだけなのでしょうか。それならば、こうした人たちを失ってしまったらどうなるのでしょうか。私はこう思います。だれよりも私たちを愛し、私たちを必要としているのは私たちを創造された神様ではないかと。なぜならば、神様は、私たちを罪から贖い出すために御子イエス・キリストの十字架の血という大きな代価を払われたからです。何のために?それは、私たちが神様との交わりを回復するためです。私たちは、神様の愛の対象であり、本来神様との交わりに生きるように創造されているのです。私たちは、神様との交わりを通して生きる喜びと毎日を生きるいのちと力を得ることができるのです。知って下さい。あなたも神様に愛され、神様に必要とされています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4
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by sayama_church | 2006-10-16 23:03 | Comments(0)

ある婦人牧師の生涯から

 先日、一冊の本を手にしました。それは、最近お亡くなりになられた一人の婦人牧師を記念して著されたものです。この婦人牧師は、40代のとき献身し、生涯を独身で主に仕えられました。若い頃に患った結核のために片肺で、晩年は酸素ボンベがなくては生活できないようなお体でしたが、そのご生涯において多くの実を結ばれ、多くの人に慕われました。
この先生の告別式のときに一人の牧師が述べられた弔辞がその本に収められていました。題は「先生のような生き方を追い求めて」とあり、こんな一文がありました。「私がもう存じ上げた最初の頃から、結核を患った身として、本当に痩せ細っておられた体で、本当にこういう体力で、奉仕が出来るんだろうかと常々思っておりました。けれども先生を生かし、先生を、またその働きにおいて実りあるものとしたのは、どうも先生のいわば体力と言ったらよいでしょうか、持っている先生ご自身の力というよりは、弱かった分、自分の罪や弱さを良く知っておられた分、主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストの働きが先行していくことを待って生きておられた、奉仕しておられた。・・・私は、もう10年前にもなりますがけれども、心筋梗塞で倒れまして、障害者手帳を持つ身となりました。・・・そういう自分の体の健康が失われたとき、自分の力で何事かをなすのが牧師の務めではない、そのことをようやく受けとめられるようになった・・・」
 「あなたは、自分の力とがんばりで奉仕しようとしていないか。」そんな語り掛けを受けたような思いでした。私たちは、主イエス様の後ろをついていくだけでよいのです。
 「わたしについて来なさい。」 マルコ1:17
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by sayama_church | 2006-10-11 20:55 | 牧師の窓 | Comments(1)

贖いの恵み

 先週、私は牧師の研修会に行きました。こうした会合に参加する恵みに、学びとともに同労者との交わりがあります。ある宣教師からこんな話を聞きました。
 一人の塾を経営していた青年が破産してしまいましたが、教会に来て救われました。やがて彼は献身の志しを持ち、借金を返済してから神学校に入学しようと思いました。しかし、宣教師は考えました。もし、その青年の借金を肩代わりしてあげたら、彼は、主の《贖い》の恵みがいかなるものであるかを深く知り、良い牧師になれるのではないかと。教会にはお金はありませんでしたが、ちょうど献金が与えられたので、それで彼の負債の全額を支払い、神学校に送り出してあげました。さらに、学費、寮費もサポートしました。宣教師は、彼が卒業したら自分たちの教会に帰り、奉仕し、自分の後継者となってくれるものと楽しみにしていました。ところが、卒業の年になると、青年は、もっと可能性のある別の教団に行くことを望みました。宣教師はとても残念に思いましたが、彼を送り出すことにしました。
 宣教師のとった行為はとても立派だったと思います。そして、青年のしたことはちょっと残念なことでした。でも考えてみますと、私たちも主イエス様に対して時々同じようなことをしているのかもしれません。主は、私たちを愛して、惜しみなく犠牲を払い、私たちの罪の贖いのために十字架に掛かって下さいました。しかし、私たちは何度も主のご愛を裏切り、主のお心を痛めてきました。その青年もいつの日か宣教師の心の痛みに気づき、主の購いの恵みの深さが本当に分かることでしょう。私たちは自分の罪の大きさに気付いた時にこそ、贖いの恵みが分かります。
 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。・・・」
                                      Ⅰヨハネ3:16

 
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by sayama_church | 2006-10-06 08:19 | 牧師の窓 | Comments(0)