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インマヌエルの神

 クリスマスを迎えました。おめでとうございます。実は、欧米では、クリスマスの夜は、ある人たちにとっては孤独を痛感するときであると言われています。何故かというと、普通は家族や友人と誘い合って、食事を共にしたり、楽しいときを持つのですが、中には家族を失ったり、友にも恵まれずに、一人で過ごさなければならない人もいるからです。
 孤独というのは、辛いことです。また、家族や友だちがいても、自分のことを本当に理解してもらえないという、寂しさを味わうことも悲しいです。
 さて、キリストが誕生される前、預言者を通して彼について言われたことは、こうでした。 
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
                           マタイ1:23

 驚くべきことに、ここには「神は私たちとともにおられる。」とあります。至高の、全能、聖なるお方が、私たちとともにおられる!イエス・キリストにおいてこのことが実現したのです。これは、聖書が語っているメッセージです。約束です。私たちの罪のために十字架にお架かりになられ、3日目によみがえられたキリストは、信じるものの心を住まいとされ、その人生を導き、さとし、支えて下います。キリストは、私たちの生ける神であられるばかりか、実に友であるのです。あなたは、そのことを体験されていますか。
 
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by sayama_church | 2006-12-26 11:36 | 牧師の窓 | Comments(0)

天を想う

 N姉が天に召されました。開拓当初から私たちの教会のために祈り、支えて下さった方です。私は、1993年に神学校を卒業して、狭山に遣わされ、そして教会がスタートしましたが、N姉はその前の家庭集会から見えられていました。とても、謙虚で慎ましい方でした。何よりも純粋な信仰をもっておられました。そして、私たちの教会の土台となって下さいました。それだけに、今、何とも言えない、寂しさを感じています。
 私は、牧師となって13年たちますが、ずいぶん多くの方々を天国に見送りました。友人、恩師、教会員、親族・・・。ご葬儀に参列するだけではなく、司式も何度もさせていただきました。そして、その度に襟を正されるような気持ちにされます。
 聖書にこのような言葉があります。
「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」 伝道者の書7:2
 私たちも、やがてこの地上の生涯を終えるときがきます。普段はこの地上における生活のことで頭が一杯で、やがて自分も主の前に立つときがくることを忘れています。しかし、やがて愛する主にお会いする日が来ます。愛する友人、家族に再会する日が来ます。主の十字架の血による罪の赦しを信じ、謙って、慎み深く、主により頼みながら、日々歩ませていただきたいと思うことです。
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by sayama_church | 2006-12-24 08:36 | 牧師の窓 | Comments(1)

教会に仕える

 先週、地域教会の牧師会が私たちの教会で開かれました。その時、新しくこの地の教会に転任されて来られた牧師が自己紹介して下さいました。とても温和な、感じの良い方でした。
 彼は、前任の教会や新しく赴任した教会を、「私が仕えていた教会」「私が今仕えている教会」と表現いたしました。そのときは、何気なく聞いておりましたが、後々に深く心に留まりました。何と謙った、謙虚な言葉だろうか、何と聖書的な言い回しだろうか、と。
 私は、出来上がった教会にではなく、主の摂理の中で開拓に遣わされて、今日に至りました。そして、日々、私たちの教会はどのようになるべきかと祈り、考えています。そうした中で、「私は教会に仕える者である」という心が希薄になっていないかと心探られるような思いでした。
 教会とは何でしょうか。神がご自身の血をもって買い取られた信徒の群れです。イエス・キリストの十字架による罪の赦しと永遠のいのちを信じ、イエス・キリストにより頼んで生きていこうとする者たちの集まりです。そしてイエス・キリストをかしらとする信仰の共同体です。
 私は、この共同体の一部であると共に、神の言葉を余すことなく伝えることを通して、キリストのからだなる教会に仕えるものです。私たちの教会が信徒の群れとして、主体的に自覚的に、共同体として主に仕え、この世にイエス・キリストを示すことができるように祈ります。
 「私は、・・・教会に仕える者となりました。」 コロサイ1:25
 
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by sayama_church | 2006-12-14 23:29 | 牧師の窓 | Comments(0)

クリスマス、降られた愛

 クリスマスの時期になりました。この時期になりますと、年末の慌しさが加わり、なかなか落ち着いて、ゆっくりと クリスマスの意味を考えながら、主に心を向けることができないことを悲しく思うことです。せめて毎回の礼拝と祈り会では、これまで以上に主に近づきたいと願うことす。
 ところで、クリスマスと言いますと一般には赤や緑の華やかなデコレーションやきらびやかなイルミネーションを、また心ワクワクさせるプレゼントなどを連想いたします。しかし、聖書の世界を知れば知るほど、私はそうしたこととは逆の貧しさや卑しさを感じるようになりました。
 一言で言うならば、キリストは降られたのです。神の栄光の立場から人の立場に下られたのです。宮殿のベッドにではなく飼い葉おけに寝かされたことも、社会的に疎外されていた羊飼いによって最初にその誕生が喜ばれたことも、主が徹底して下られたことを示しています。
 よく考えますと、人間の世界の争いは、すべて自分が人の上に立とう、優越感を持ちたい、支配しようとするところから始まります。へりくだることができないのです。仕えることができません。そこに私たちの罪深さがあります。キリストがなされたことは、私たちの逆でした。
 このクリスマスの時期、私たちを救うために私たちのところまで降りてこられたキリストを覚えさせていただきましょう。私たちは、このキリストの降られた愛によって救われたのです。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」 Ⅱコリント8:9
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by sayama_church | 2006-12-08 15:47 | 牧師の窓 | Comments(1)

私の信仰の原点

 私がイエス様を信じたのは、子どもの時でした。夏のキャンプで牧師は、ラザロと大金持ちのお話をしてくださいました。「金持ちは毎日贅沢三昧に暮らしたが目が覚めたところは地獄の炎の中でした。ラザロは全身おできの貧乏人でしたが、天国で大きな慰めを受けました。」というお話は大変心に迫りました。
 天国に行ける人になりたい、ただそれだけでした。自分の心に掛かる罪~弟をいじめたとか、けんかをしたとか、今から考えると本当に子どもらしい罪でした。~を祈りのなかで告白して、悔い改め、イエス様を心の中に救い主として迎え入れました。その時に心の中に大きな平安をいただきました。神に受け入れられ、神の手の中にある自分を感じました。「今たとえ死んでも天国に行ける」と思いました。 
 そして中学1年生のときに洗礼を受けました。洗礼を受けた時の喜びと感動も忘れることはできません。これが私の信仰の原点です。  
 ところがクリスチャンとしての歩みが、それから順調であったわけではありません。何度も神様から離れ、罪を重ね、心を虚しさで一杯にしたことがしばしばありました。顔つきも目つきも変わってしまったこともありました。けれども、神様は私をお見捨てになりませんでした。何度も神に立ち返り、立ち返るごとにイエス様は平安と喜びで私の心を満たして下さいました。
 今、人生の半ばを過ぎました。幼いときよりも、もっと現実的に死を考えます。そんな時、有名な牧師になるよりも、イエス様に喜ばれる奉仕をして天国でイエス様にお会いしたいとつくづく感じることです。
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」Ⅰテモテ6:12
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by sayama_church | 2006-12-01 15:18 | Comments(0)