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自我の殻を越えて

 先日聖書を開いているとき、こんな言葉が私の目に飛び込んできました。
「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時がこないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる物は、この両方を会得している。」 伝道者7:16~18
 とても印象的な聖句で深く心に残りました。ここには、「正しすぎてはならない。」「知恵がありすぎてはならない。」と不思議に感じる言葉があります。
 私は、とてもりっぱな牧師の下で信仰に導かれ、養われました。そして、信仰の奥深い世界を教えていただきました。しかし、その一方でその先生から教えられたことに対して強い頷きと確信を持つあまり、他の教派、教会に対して、言葉には出しませんが「あれはどこか違うのではないか。」という思いをよく抱いたものでした。自分に対する確信が強いあまり、自分とは異質なものを排斥してしまう心があったのです。
 これが、「正しすぎる」「知恵がありすぎる」ことではないでしょうか。学んで確信したことをしっかり握っていることは大切です。しかし、自分の理解、考え、主張に固執し、囚われ、自分以外の考えに聞く耳を持つことができなくなると、自我の殻の中で霊的命を失うことになりかねません。いつでも、謙遜に自分とは異なる理解、意見、考え方にも耳を傾けるものでありたいです。
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by sayama_church | 2007-01-28 22:23 | 牧師の窓 | Comments(1)

一つの思い出

 私は、学生時代に新聞配達をしていたことがあります。朝夕の一時間少々のときを、この水野のあたりを自転車で回りました。そんなこともあり、牧師になるために献身して会社を辞めたときに、いざというときは新聞配達でもしようかと思ったこともありました。しかし、主は、不思議に、そのようなことをすることもなく、ここまで導いて下さいました。
 ところで、その新聞配達をしていた頃のある忘れられない思い出があります。ある夕方3時ごろ、いつものように配達所に行きました。配達所と言っても、所長がご自分の自宅の脇にプレハブで作ったような、小さくて狭い所でした。思春期で幾分はにかみ屋であった私は、挨拶もろくにできない青年でした。デスクで何やら仕事をしていた所長の背中を見ながら、何も口から言葉がでてこない自分に、何となく気まずさを感じながら、いつものように自分の配る分を取り出して、自転車に積もうとしていました。そのとき、所長がくるりと向きをかえて、私を見つめながら、きっぱりと少し厳しく「入ったきたときは、挨拶をしなさい。」と注意されたのです。それは、ハッとさせられるような出来事でした。以来、私は多少ぎこちなさを覚えながら、勇気を出して、挨拶をするようになりました。
 今、水野の地を自転車で走るときに、あの日のことを時々思い出します。神様は、さまざまなことを通して、私たちに教えてくださるのです。
 「訓戒を愛する人は知識を愛する」 箴言12:1 
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by sayama_church | 2007-01-22 16:36 | 牧師の窓 | Comments(0)

やみから光へ

 最近、ハッと息を呑むような凄惨な出来事が立て続けに起こりました。妻が夫を、兄が妹を殺し、遺体をバラバラにしてゴミ袋に入れた事件です。どんなに恐ろしい形相の人かと思うと、いたって普通の人のようでした。
 悲しいこと、否、恐ろしいことは、最近はこうしたニュースを聞いても、私たちはそれほどの驚愕を覚えなくなったことです。あまりにも、次々とこうした悲惨な事件が起こるので、多少感覚が麻痺してしまってのかもしれません。せいぜい「またか!」と言う印象を持つ程度になってきているのです。
 けれども同時に、私たちは感じているのではないでしょうか。そうしたことにつながりかねない人間の心の闇、暗黒さが身近のいたるところであふれ、噴き出していることを。そして、こうしたことは、常軌を逸したことではあるけれども、ありえない事ではない、否、自分たちの延長線上にも起こりかねないことを。今はそのような時代です。祈らされます。
 ところで、イエス様はすばらしいことを約束されました。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」 ヨハネ8:12
 キリストは、人間の心の深いところに持つ闇の部分、すなわち罪を解決してくださる方です。そして、キリストに従うときに、私たちは、闇の中を歩むことがなくなるだけではなく、いのちの光をもつものとなるのです。すばらしいことではありませんか。ハレルヤ!
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by sayama_church | 2007-01-15 22:36 | 牧師の窓 | Comments(1)

わたしにとどまりなさい

 新年明けましておめでとうございます。この一年間の歩みに主の祝福が豊かにお一人お一人の上にありますように心からお祈りさせていただきます。
 ところで、今年も元旦から新年聖会に参加しました。帰ってきて、今、私の心に、次の御言葉が静かに響いています。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」
                                       ヨハネ15:4

この御言葉から講師の竿代照夫先生が「キリストにとどまりなさい。とどまり続けなさい。」メッセージしてくださいました。
 キリストにとどまるとは、どういうことでしょうか。それは、キリストに対する信仰、信頼にとどまることです。キリストの御言葉に聞き従うことです。キリストの愛を信じて歩み続けることです。
 しかし、ここにはもっと深い意味があります。キリストは、そのことをぶどうの木と枝の例えで教えて下さいました。キリストがぶどうの木で私たちが枝というのです。枝はぶどうの木についていなければ、実を結ぶことはできません。枝とぶどうの木は、一体です。同様に、私たちもキリストとの命の関わり、生命的な交流に生きるのです。このことを、キリストは、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっていりなら」(ヨハネ15:5)と表現しました。
 この一年間、キリストとこのような親しい関係、交わりの中に歩ませていただきましょう。そうしたら、豊かな実を結ぶことができると約束されています。
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by sayama_church | 2007-01-07 16:50 | 牧師の窓 | Comments(0)

聖霊に励まされて

 2006年度を締めくくる日となりました。1年間の皆様のご愛とお祈り、ご奉仕を本当に感謝いたします。
 最近ますます、教会は牧師のものではなく、牧師のためのものでもなく、牧師一人で担うものではないことを感じています。教会は、キリストのものであり、群れに連なる一人一人がかしらなるキリストを愛して、共に仕えていくところであると思います。そのことを理解してくださり、今年も多くの方々が、その与えられている力に応じて、教会の働きに関わってくださいましたことを篤く御礼申し上げます。
 さて、今年は使徒9:31の御言葉を与えられ、《聖霊に励まされて》を標語にして歩んできました。
「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築きあげられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」 使徒9:31
 振り返りますと、この御言葉の約束の通りに、私たちは聖霊に励まされてきたように思います。最近は、求道者や新しい方が多く与えられ、礼拝出席者も増えてまいりました。主を信じ受け入れる方や受洗者も起こされました。会堂もメンテナンスされ、きれいになりました。すべて、聖霊が励まし、導いて下さったことだと思います。
 新しい年も、主に祈り、主に期待して、歩んでいきましょう。
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by sayama_church | 2007-01-05 21:22 | 牧師の窓 | Comments(1)