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心の平安

 キリストを信じて、救われた恵みを一言で言い表すとどのようになるのでしょうか。その恵みはあまりにも大きく、また深さと広がりがありますので、人によってその言葉は異なるかもしれません。同じ人でも、時々によって実感として出てくる言葉が変わるかもしれません。その喜びと感謝は、経験しなければ分からないものです。
 私は、少し硬い表現ですが「本来いるべきところに戻った、帰った喜び、安心」と申し上げたいです。赤子のことを考えていただきたいと思います。赤子が一番安心できるところは母親の懐の中です。母親に抱かれている時は、赤子は一番満足します。私は、イエス・キリストを救い主として心に迎えたときに、この赤子のような安心と平安を心の奥底に経験しました。そして、この平安は、私が主のそばにいる限り、今も変わらずに、私の魂の奥底を支配しています。
 人間はだれでも心の中に漠然とした恐れ、不安を持っています。例えばどんなに物質的に満たされても、経済的に社会的に恵まれても、魂の奥底にある虚無感、空しさは、解決されません。それは、等しく皆が経験していることです。何故でしょうか。人は本来いるべきところにいないからです。魂の牧者である神のもとにいないからです。聖書はそのように教えています。
 主イエスは、「失われた人を捜して救うために」(ルカ19:10)来られました。本来いるべきところにいない魂の放蕩息子を救うために来られたのです。あなたはいかがですか。この魂の平安を経験されていますか。
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by sayama_church | 2007-03-25 23:21 | 牧師の窓 | Comments(0)

教会総会

 今日は、年に一度の教会総会が開かれます。ところで、総会と名がつくものは方々で見受けられます。身近なところではPTA総会、自治会総会、果ては株主総会まで。それでは、教会総会は何のために開かれるのでしょうか。
 教会総会が開かれる目的は、三つあります。
 一つ目は、教会の運営・会計等を主の前ばかりか人の前にも公明正大にするためです。聖書にこうあります。「私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることのないように心がけています。それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。」Ⅱコリント8:20・21
 二つ目は、一人一人がキリストの教会という共同体の一部としての自覚を深め、主の働きに参与するように励ますためです。聖書は教会についてこのように言っています。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」Ⅰコリント12:27 教会は、キリストの体に例えられる共同体です。頭はキリストご自身で、私たちは器官です。今日キリストは、教会という共同体を通して、この世に対してご自身の業を行うことを願っています。教会はキリストの業を行うのです。教会総会は、このことのために自分が何をするように導かれているかを全体で確認する時です。
 三つ目は、主の御心を確認するためです。一般の会議は、それぞれ自分の考えや利害を主張して、皆が受け入れられる妥協点を見出し、意思決定をします。しかし、教会会議では、皆で何が主の御心なのかを探り、確認しようとするのです。私たちの教会が、いつもこうした原点を見失わないようにと祈るものです。
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by sayama_church | 2007-03-18 22:00 | 牧師の窓 | Comments(0)

長女のこと

 家内が自治会の班会議に出て留守のとき、私は子どもたちと一緒に夕食をとっていました。すると突然、ガチャンと何かが落ちる音と共に、長女が椅子から飛び上がり、火が付いたように泣き出しました。見るとお茶碗がひっくり返り、熱湯を入れたばかりのお吸い物が、彼女の太股、そして床にとこぼれ出ていました。
 子どもたちは、まだ小さいこともあり、よく茶碗をひっくり返します。それで私は、やれやれまたかと思い、少し彼女をきつく叱り、床の掃除を始めました。彼女の足の手当てをすることを、第一には考えませんでした。たいしたことなかろうと思ったのです。
 ところが、しばらくして彼女の太股には大きな水ぶくれがいくつもできてしまいました。家内が帰ってきて、優しく傷口に薬を塗り、包帯をしている姿をみながら、フッと自分の思いやりの無さをしみじみと感じました。娘の傷を見ながらも、「自業自得、これからは注意するように。」との思いばかりがあったからです。
 ところで、主は私にそのようになさったことは一度もありませんでした。私が苦しみつつ叫び求めても、自業自得とばかりに、放っておかれたことはありませんでした。いつも私の痛みに共感してくださり、私の重荷を一緒に担ってくださいました。聖書にこうある通りです。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみのよって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」  イザヤ63:9 
 この神様のご愛をもっと深く悟らせてください。主よ!
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by sayama_church | 2007-03-11 22:25 | 牧師の窓 | Comments(1)

弱さの幸い

 先日、古くからの知己の西郷先生がお出でくださり、祈り会で御用をして下さいました。その中で、「御霊は弱い人を好まれ、その人の内に住み、その人を助けられる。」と言われたことが、私の心に深く残りました。
 聖書はこう言っています。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 ローマ8:26
どのように祈ったらよいか分からない者、つまり祈ることすら間々ならない弱い私たちを御霊は助けて下さると言うのです。
 神様は、人間のものの見方と違うようです。強いものではなく、弱いものに目を留められるのです。このことは、聖書の他の記事からもよく分かります。
 イスラエルをミデヤン人から救った勇士ギデオンは、敵の目を逃れて酒ぶねの中で小麦を打っていた弱い男でした。モーセはイスラエルの偉大な指導者となりましたが、主が彼を召されたとき、彼は、自分は言葉の人ではないといって尻込みしています。パウロは、人並みはずれた経歴と能力の持ち主で、彼ほど後世に影響を与えた人物は稀ですが、何らかの肉体的なとげを持ち、自分の弱さを痛感していました。
 驚くべき真理ですが、神は、弱い者に敢えて目を留められます。正確に言えば、弱さを自覚している者です。神は自分の弱さを知って神により頼む者を支え、そればかりかそうした人を通して神の栄光をあらわされるのです。弱さバンザイ。
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by sayama_church | 2007-03-04 18:13 | 牧師の窓 | Comments(0)