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良き理解者

 先日、娘が学校に行きたくないと言い出しました。算数が分からないと言うのです。一生懸命に皆についていこうと頑張って、疲れもでたのかもしれません。一日休ませ、翌日また元気に登校しました。私は、当初「休みたい」という娘を説得して、無理にでも行かせようとしました。休み癖がついてはいけないと思ったのです。けれども、家内は「あの子は、疲れているのよ、少し休めばまた行くわよ。」と言うので、その通りにしてみたのです。
 さて、翌日ある方からお電話をいただきました。「Mちゃん、学校へ行きました。」「はい、行きました。」「ああ、そう良かったわ。」それだけのやり取りでしたが、相手の方の娘に対する温かい気遣いが伝わってくるようで、何となく嬉しくなりました。娘がどうして学校を休んだかは何もお話していないのですが、すべてを察しているような雰囲気でした。
 ところで、聖書は、主イエスについてこのように語っています。
「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者を助けることがおできになるのです。」 ヘブル2:18
 主イエスは、永遠に存在される神であられましたが、地に降り、私たちと同じ人となり、人としての試みを受け、苦しまれました。だからこそ、私たちの痛みと弱さに同情することができ、私たちを救うことができるのです。
 今日は、ペンテコステです。聖霊は、キリストの御霊とも言われます。彼は、私たちの内に住み、私たちを支え、助け、慰めて下さるのです。
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by sayama_church | 2007-05-27 17:52 | 牧師の窓 | Comments(0)

疲れからの解放

 今、一冊の本を読み始めています。まだ、ほんのさわりの部分しか読んでいませんが、少なからずグッと来るものがありました。ドイツの福音主義神学者クルスティアン・メラー著の「慰めの共同体・教会」という本です。
 著者はこのように言います。説教も教会もパラクレーシス(慰め)に満ちたものでなければならない。神の言葉そのものが《慰め》なのだから。教会とは疲れ果てた人に安堵を与える慰めの共同体である。当然といえば当然のことです。主イエス様は、 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言っています。
 でも、なぜか私の心に触れるものがありました。著者は、私たちがなぜ疲れ果てているのかについてこのように言っています。「自分自身が業績を上げなければならないという強迫観念のとりこになっていたということである。」《業績》というと分かりづらいですが、自分自身が何かをしなければならないという心とも置き換えられましょう。思わず我が身を振りかえらされました。私たちには、「結果や結実を出さなければならない。」「自分の何かが変わらなければならない。何かを変えなければならない。」「あれをしなければならない。これをしなければならない。」という思いが心のどこかにいつもあります。
 「主が助けてくださる。」「主イエスが私のすべてを引き受けてくださる。」という神の国の豊かさをもっと深く味わい知る必要があるのではないでしょうか。主イエスは「私にかかわるすべてのことを成し遂げてくださる。」(詩篇138:8)のです。
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by sayama_church | 2007-05-20 17:51 | 牧師の窓 | Comments(0)

母の日にあたって

 今日は、母の日です。お母さんがご健在の方は、何かご計画をお持ちでしょうか。もちろん父親もですが、母親の存在は子どもにとって格別でしょう。
 私は、こんな思い出があります。小学校のころ、あることがきっかけでクラスメートにいじめられるようになりました。母には決してそのことを話しませんでしたが、テレビを見ながらある日、母の膝に顔をうずめ、気がつかれないようにうっすらと涙を流したことを覚えています。当時の私にとってはとても辛い毎日でした。しかし、「学校だけがすべてではない。家がある。母がいる。」と思うことによって、安心して学校に通うことができました。
 ところで、神に愛されたイスラエルの王ダビデは、このように言いました。
「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」 詩篇131:2 
ダビデは、母親の存在が子どもにとってどんなにかけがえのないものであるかを知っていました。しかし、同時に彼は、神が母親のごとく慕わしく、神の前にでるときに自分の魂が真に落ち着くことも経験しました。
 母親は、いつでも一緒にいません。大人になれば独立します。年を重ねれば、悲しい別れのときが来ます。世には様々な事情により、小さいときから母親と別れて暮す人もいます。また、母親と複雑な葛藤を抱えて大きくなった人もいます。しかし、知ってください。神は母の愛にもまさって私たちを愛しておられるのです。
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by sayama_church | 2007-05-13 22:13 | 牧師の窓 | Comments(0)

死の解決

 先週、このコラムで所沢の元気大学での講演会のことを紹介しました。その後日談です。M兄がこんなことを話してくださいました。
 「地域では、公民館などでシルバーのために様々な講座が開かれています。けれども、内容は趣味や料理や学びや・・・など、定年後の人生を楽しんでくださいと言ったものがほとんど。宗教的な内容はご法度です。けれども、今回はベドウさんが『外国人の目から見た日本』というテーマで講演したのですが、途中から聖書の福音をそのまま語り出し、皆さん大変感銘しました。後に公民館のスタッフの間では、『老人にとって一番関心あることは死の問題であるが、今まで公民館活動では死の問題を扱うのではなく、むしろ死から目を背けさせて、今を楽しみなさいということばかりをしてきた。死という問題にきちんと目を向けた活動もしていく必要があるのではないか。』と話し合われました。」
 なるほどと思いました。今は日本の社会全体がなるたけ死を覆い隠して、「死の問題は忘れましょう。それよりも今を楽しく暮らしましょう。」と言っているような気がします。でも、死は公平にだれにでも訪れます。金持ちにも貧しい人にも、社会的偉い人にもそうでない人にも・・・皆、だれもが死を迎えます。死は避けて通れません。ですから死の問題を解決することはとても大切なことです。そして死の問題の解決は生の充実につながります。
 ところで、イエス・キリストは罪と死から私たちを解放して下さったのです。
「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」 ヘブル2:15
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by sayama_church | 2007-05-07 00:45 | 牧師の窓 | Comments(0)