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ラブ・ソナタに参加して

 先週の火曜日にラブ・ソナタに行ってきました。沖縄、福岡、大阪で既に開かれて大きな反響があり、そして今回は、首都圏の2万人収容施設のさいたまスーパーアリーナでありました。今後は、仙台、札幌と、日本を縦断するように開かれます。 
 この大会は、文化伝道と銘打ち、実に多彩な音楽ゲストや洗練されたプログラム、著名な韓国芸能人出演、そして短くて心の届くメッセージ・・・とても工夫された素晴らしい内容の集会でした。今後の伝道を考えるときに、大いに考えさせられました。これまでの習慣や伝統に縛られずに、人々を主イエス・キリストに導くためには、どうしたら良いかを頭を柔軟にして考えなければならないことを教えられました。司会者を立てず、偉い人の挨拶もなく、会衆を飽きさせずに、テンポの良い進行も見事でした。
 けれども、何よりも私の心に残ったことは、このような働きを韓国の一教会~オンヌリ教会が、犠牲を払い、準備と経費のすべてを担い、開いてくださったと言う事実です。その宣教に対する熱き心、情熱には心打たれるものがあります。
 聖書にこうあります。「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。・・キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」Ⅱコリント5:14,15
 私たちは、どうでしょうか。未だ自分のために生きるのでしょうか。それとも、キリストのために、殊にキリストの愛に押し出された宣教の心に生きるのでしょうか。
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by sayama_church | 2007-07-29 21:44 | 牧師の窓 | Comments(0)

あるものを感謝しよう

 私は、最近、主に一つのことを教えられました。主は、私にこう語られました。「無いものを数えるのではなく、あるものを数えて感謝しなさい。」それは、私にとってよく分かっていた真理でしたが、現実は必ずしも、そのように生きているとは言えませんでした。それで、ハッとさせられました。
 それ以来、まず、私の祈りが少し変わりました。私にとって大きな関心は、教会の祝福と成長です。私は、毎日、このように祈っていました。「主よ。毎月のように新しい人が教会に導かれ、救われ、教会が成長するようにしてください。」今でもそうした祈りがないわけではありません。けれども、まず、このように祈るようになりました。それは、教会に見えておられるお一人お一人の名前をあげ、それらの方々の祝福を祈りながら、「主よ、これらの方々を私のような者が牧師をしている教会にお導きくださっていることを感謝します。」その後に、「主のご栄光のために、神の国がこの地に広がるために、主がこの教会に導こうとされている方をお送りください。」
 聖書はこのように言っています。 「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」 Ⅰテモテ6:6
 私たちは、足りないものに目を留めて、心を焦がすのではなく、まず今与えられているものに目を留めて、それを感謝しようではありませんか。それは、きっと私たちの生活をより豊かに、祝福したものにすることでしょう。そして、主は、必要ならば、例えそれがどのようなものであっても私たちに与えて下さるのです。
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by sayama_church | 2007-07-22 18:54 | 牧師の窓 | Comments(2)

自分から声をかける

 私は、人に声をかけるのがどちらかと言うと苦手です。その点、家内は、だれにも気軽に話しかけられるようで、うらやましい限りです。ところで、自分の方から人に声をかけることは、ときにはとても大切なことではないでしょうか。相手にキリストの愛を表すことになるからです。
 イエス様は、ご自分のところに来る人を喜んで迎えられましたが、また多くの場合、ご自分から人に近づき声をかけられています。旅の疲れを覚えて井戸のかたわらに腰をおろしておられたとき、人目をはばかるように水を汲みに来た女性に、「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけられました。そしてそこから始まって、彼女はもはや渇くことのない命の泉を持つ救いへと導かれました。主イエスがどのような方であるかを見ようと木に登っていたザアカイに、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と声をかけられました。ザアカイは、大喜びで主イエスを家に迎えました。その結果、彼は自分の罪を悔い改め回心しました。新約聖書を読むと、主イエスはほとんどの場合、ご自分から人に近づき、ご自分から人に声をかけておられます。人が自分に近づき声をかけるのを待っておられたのではありません。
 私は、あのときに、あのところで、あの方に、声をかけていれば、事態が変わっていたのではないかと後悔をもって思い出されることがあります。キリストの愛を表すために、主イエスのすばらしい救いをお知らせするために、自分の方から人に声をかけるキリストの心をいただきたいものです。愛は人を積極的にします。
 「人は、失われた人を捜して救うためにきたのです。」 ルカ19:10
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by sayama_church | 2007-07-15 22:45 | 牧師の窓 | Comments(0)

豊かな実を結ぶために

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
                                       ヨハネ12:24

先週、霊的な渇きを覚え、主の語りかけを求めて、祈っていたときに心に通ってきた御言葉です。
 これは主イエスの十字架に架けられる数日前の御言葉です。一粒の麦とは主イエスご自身を指し、「死ぬ」とは十字架を意味しています。人としての主イエスにとり、十字架はできたら避けたかったことでしょう。人々の病を癒し、奇跡を行い、ユダヤをローマの支配から政治的に開放してあげることの方が、はるかに魅力的だったでしょう。なぜならば、それは人々の意にかなっていたことでしたし、主イエスにとっても楽な道でした。また人々の称賛、賛美、歓呼の声を受ける道でもありました。しかし、主はその道を斥けられました。父なる神の御心の道ではなかったからです。真の栄光につながる道ではなかったからです。全人類を救うという豊かな結実に至る道ではなかったからです。主イエスは十字架の道へと進まれます。辱めと苦しみの道です。苦難の道です。
 ところで、私たちはどうでしょうか。十字架を負うことを逃げてばかりいないでしょうか。苦しみや困難を避けてばかりいる自分。それでいて、栄光と誉れ、祝福ばかりを求めている自分。そんな自分を振り返らされます。十字架なくして真の栄光はなく、自分が死ぬことなくして豊かな結実はありません。自分を全く主に捧げ尽くし、明け渡し、自分にとって嫌なこと、避けたい道でも、主のお心であるならば、それに従うものとさせていただきたいものです。
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by sayama_church | 2007-07-09 16:07 | 牧師の窓 | Comments(0)

I 兄を偲び

  I 兄が天に召されました。八十数年のご生涯と一ヶ月の信仰生活でした。I 兄との出会いは、T 姉から「寝たきりの父を見舞っていただけないでしょうか。」との依頼を受けたことが始まりでした。お訪ねする度に、主イエス様の十字架による罪の赦しと永遠の命を簡単にお話し、お祈りをして帰っていました。ある時、もうその頃は大変お弱りになり、受け答えもはっきりできないような状態でしたが、お祈りをしようとすると、何かを全身で訴えておられる様子でした。直感的にキリストを求めておられることを感じ、祈りをやめて、救い主キリストによる罪の赦しと永遠の命の約束をお話し、「主イエス・キリストを信じますか。」と尋ねました。すると驚いたことに彼は、はっきりと「はい」と答えられました。実は、そのときは、もう肉体的に受け答えできるような状態ではなかったのです。私は、彼が救われたことを確信し、ご家族に相談して受洗をお勧めし、一週間後に2人の立会人の下に病床洗礼式を持ちました。
 お亡くなりになる2日前のことです。お見舞いに伺うと、呼吸が乱れ、少し苦しそうなご様子でした。私は、最初どうしてよいか分からずにしばらく傍らに立ち、看護婦さんを呼んだりしましたやがて頭に手を置いて祈り始めると、不思議なくらいに穏やかな表情に変わりました。そのとき私は、I 兄は、確かに主イエスを信じ、主イエスの御手の中にあることを深く感じました。 
 主イエスはこう言われました。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
                                        ルカ15:10

 召されたことに悲しみを感じますが、御国にあることを覚え主を崇めます。
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by sayama_church | 2007-07-01 21:39 | 牧師の窓 | Comments(1)