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福音のためには何でも

 祖母が、天に召されてまもなく9年になります。10月31日は、いわゆる命日です。祖母は明治の人でしたので、振り返ってみると、やはり明治らしい気質と文化をもっていました。「男子、厨房に入るべからず。」とか「男はニコニコしているより、きりっとしていた方がよい。」などと言われたことがあったように思います。
 今、もし生きていて、私の家庭での様子を見たら何と言うのでしょう。先日も家内が忙しそうなので、夕飯の買い物をしてきたのは良かったのですが、不必要な物や見当はずれの物までしこたま買ってしまい、家内だけではなく娘にまで呆れられてしまいました。父親の権威などどこにあるかという感じです。
 ところで、文化~ものの見方、感じ方、価値観・・・等などは、時代や世代によって異なります。時代や世代だけではなく、人によっても違うでしょう。ましてや、教会、教団、教派においては、もっている福音の真理は同じでも、文化の色合いには違いがあります。私は、ときどきパウロのこの言葉を思い出します。 「私は・・・ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。・・・弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。」 Ⅰコリント9:19-23
 これまでの教会の文化、伝統と違うと感じるようなことがあったとしても、一人の魂をキリストに導くためには何でもする心を持ちたいものです。
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by sayama_church | 2007-10-29 12:04 | 牧師の窓 | Comments(0)

私たちを心にかけて下さる神

 神様は、信仰の弱い私たちを、励まして下さいます。多くは、祈りが答えられたり、御言葉が与えられることによって励まされます。それは、「私は生きている。そしてあなたのことを心にかけているよ。」と私たちに語って下さっているようです。たわいのないようなことですが、私にとっては嬉しかった先週の小さな出来事を、3つ記させていただきます。
1、あることでとても気持ちが落ち込んでいました。現状と将来の見通しを考えると、心が重たくなるばかりでした。ところがディボーションのときに、聖書を読んでいると、主は「悲しみが喜びの日、喪の日が祝日に変わった月として、・・・」(エステル9:22)の御言葉を与えて下さり、「今おかれている厳しい状況の中で、この先キリストが必ず勝利を与えて下さることを信じなさい。」と力づけて下さいました。
2、大切にしていた腕時計が無くなってしまいました。学生時代に父親から買ってもらったもので、修理しながらずっと使ってきた、それは愛着のある時計です。ベルトが外れやすくなっていたので、どこかで落としてしまったようでした。ところが、主は、祈りに答えて下さり、発見できたのです。
3、このところパソコンの調子が悪く、ずっとメールの送受信ができませんでした。復旧をこころみたのですが、ダメでした。中古だったので、バージョンが古く、現在のシステムが対応できないことが原因のようでした。大変失望し、このために祈りました。新しいものを買うとなると相当な出費になるので、思い悩んでいると、何と店頭に展示品処分品として、通常の半額以下の品が出ているではありませんか。本当に感謝でした。
 「主は、あなたのことを心配してくださる。」(詩篇55:22)のです。
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by sayama_church | 2007-10-21 20:01 | 牧師の窓 | Comments(0)

苦しみに会ったことが

 私たち夫婦には、3人の娘がいます。どの子もかけがえのない子どもです。真ん中の子は、母親の胎内にいるときに水腎症と言われました。それで、まだ物心もつかないときから母親から引き離されて何度か入院をし、辛い検査や手術を受けたりしました。その後も、どう言う訳か全体的に同年代の子どもと比べて発達がゆっくりで、そのために色々と苦労しています。
 ところが、その子を見ていて感心することがあります。決していじけず、ひたむきで、切り替えが早く、そして何よりも心根が優しいのです。私が、姉や妹を厳しく叱ろうとすると、泣いて仲裁に入ってきます。家の犬がやたらと吠えるので叩こうものなら、顔をくしゃくしゃにして抗議します。恐らく、この子のこれまでの辛い経験が、こうした優しい心や思いやりのある心を育んでいるのでしょう。この子を見ていると、神様はこの子を祝福して下さっていることがよく分かります。
 さて、私たちは、思いもしなかった暗い中を、失望と落胆の沼地を通ることがあります。どうして神様は私をこんな辛く悲しいところを通らせるのだろうか、と思うこともありましょう。しかし、そんな失望絶望の経験が、後になっては、主イエス・キリストにあって益となっているのに気がつくときが来るのです。
 詩篇の記者は言っています。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 詩篇119:71
主イエス・キリストにあって、何と「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。」と言えるときが来るのです。
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by sayama_church | 2007-10-15 22:40 | 牧師の窓 | Comments(2)

幻を抱いて

 先日、牧師のための研修会に出席してきました。2泊3日のとても充実した内容のものでした。講師は、私とほぼ同年代のS牧師です。人口一万人ほどの地方の町で、実に堅実で目覚しい働きをされている方です。彼は、講演の中でご自分に関するこんなエピソードを紹介してくださいました。
 S牧師のお母さんは、彼がまだ幼いころに、ある問題をきっかけに教会に通うようになり救われたそうです。それから、彼も母親に連れられて教会に行くようになりなした。まだ保育園児のとき、彼はこんなことを言います。「僕は大きくなったら牧師になる。」もちろん、彼はそんなことを言ったことなどすぐに忘れてしまいます。ところが、やがて彼が大きくなり大学を卒業する頃、悩みながらも牧師になる志を与えられ、反対されることを覚悟に恐る恐る母親に相談すると、母親はこう言いました。「私は、あなたが幼いときに『大きくなったら牧師になる』と言って以来、ずっとあなたが牧師になった後のためにお祈りしていました。」
 何ということでしょうか。彼の母親は、彼が牧師になることではなく、牧師になった後のためにお祈りしていたというのです。彼の、今日の祝福の原点を見るようでした。
 祈りは、小さなものではありません。意味も力もないものではありません。旧約の預言者が後に起こる幻を見たように、私たちも、家庭のために、子ども孫のために、これからの歩みのために、教会の働きのために、主が与えて下さるヴィジョンを持って祈る人になりたいものです。
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えておおいなる事を、あなたに告げよう。」 エレミヤ33:3
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by sayama_church | 2007-10-08 18:08 | 牧師の窓 | Comments(0)