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1年を振り返る

 まもなく2007年を終えようとしています。この1年を守り、支え、導いて下さった主イエスの御名をまず心から賛美したいと思います。
 私たちの教会では、年間聖句としてイザヤ43:19「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」を掲げて歩んできました。この御言葉の光の中に、この1年を静かに振り返ってみたいと思います。
 様々なことがあった1年でしたが、主が働いて下さったこと、荒野に道を荒地に川を設けるように私たちの思いを超えて注いで下さった恵みと祝福、そして今も働き、導いておられることが思い浮かぶのではないでしょうか。
 実は、この原稿を書き終えつつあったとき、M兄がくも膜下出血で倒れられたというご連絡を奥様からいただきました。急いで病院に行くと、顔はとても穏やかそうでしたが、意識はありませんでした。様態は大変厳しい状況にあります。
 「どうしてこんなことが・・・」と帰宅してしばらくは、何とも言えない虚脱状態になっていました。思い心をひきずるようにして、聖書を開きお祈りをしていると、主は詩篇46篇の御言葉を与えて下さいました。「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」 詩篇46:5
 「神はそのなかにいまし」とは、何と言う慰めでしょうか。主はどのような中にも共におられます。M兄とご家族のためにお祈り下さい。
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by sayama_church | 2007-12-30 22:22 | 牧師の窓 | Comments(0)

主とともに生きる

 クリスマスおめでとうございます。この日を迎えて、私たちは何を思うのでしょうか。先週のアドベントの礼拝では、マタイ1:23が開かれました。
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味ある。)
クリスマスは、主イエスが私たちと共にいて下さる神であることを教えているとも言えましょう。私たちはこの神と共に生きること、共に歩む生活に招かれています。
 私は、どちらかと言うと、目的集中型のタイプではと思います。何かしらの目的を立て、それに向かって歩むことを、無意識の内にもしています。過程よりも目的が大切だと考えてしまいます。どんなに過程がすばらしくても目的を果たさなければ意味がないと思います。そんな私にとっては、生きることを楽しむとか喜ぶとか、毎瞬毎瞬毎時間毎時間を喜び楽しむとか言うのは、あまりピンとこないことでした。でも、このクリスマスに個人的に考えさせられていることがあります。それは、神様によって与えられた目的に向かって生きること走ることも大切だが、神様とともに毎瞬毎瞬を歩む過程はもっと意味があると言うことです。人生の喜びと意義は、何かを成し遂げるということ以上に、神とともに生きることにあるのではないでしょうか。
 主イエス様とともに生きる毎日をもっと喜び、楽しみましょう。
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」 Ⅰテサロニケ5:10
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by sayama_church | 2007-12-25 14:24 | 牧師の窓 | Comments(0)

彼を受け入れよ!

 今日はアドベントの第3週目の礼拝。来週はいよいよクリスマスというこの時期に、悲しいことに佐世保のスポーツクラブで乱射事件が起こり、お二人の方が命を落とされました。被害者やご家族の気持ちを思うと、胸が痛みます。主のいつくしみを祈るものです。
 ところで、主イエスが誕生されたころにも、ベツレヘムとその近辺の家々では、悲痛な泣き叫ぶ声が上がったと聖書にあります。主イエスの誕生を喜べないヘロデ王が、主イエスを亡き者にしようと、2歳以下の男子を一人残らず殺せと命じたからです。まさに悲劇でした。
 ヘロデ王は、どうして主イエスを殺そうとしたのでしょうか。主イエスが自分の王位を脅かすと思ったからです。彼は、主イエスの誕生を喜ばないばかりか、彼の存在を亡きものにしようとしたのです。
 考えてみますと、ヘロデ王の時から今日に至るまで人々は、個人も、家庭も、社会も、国家も、本当の意味で主イエスを受け入れようとはしませんでした。否、主イエスを締め出してきました。その結果は、人の心の中にも社会の至る所にも、ベツレヘムでの泣き叫びと同じような、闇と暗黒、罪とその結果の悲惨さが現れています。
 柔和で愛と義に満ちた主イエスを、救い主として受け入れましょう。「王の王」と呼ばれる彼のもとに、心と生活と人生をゆだねましょう。そうすれば、光が灯るのです。義と平和と聖霊による喜びが生まれるのです。これこそが、今日の私たちが、社会が必要としているものではないでしょうか。
 「神の国は、・・・義と平和と聖霊による喜びだからです。」 ローマ14:17
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by sayama_church | 2007-12-16 22:50 | 牧師の窓 | Comments(0)

キリストの遜り

 クリスマスの時期を迎えるたびに思うことがあります。それはキリストの遜り(へりくだり)です。聖書は、こう告げています。
 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 マルコ10:45  
 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」 ピリピ2:6
 永遠なるお方が時間と空間の中に身を置かれただけでも驚嘆なのに、何とキリストは家畜小屋に生まれ、生涯を貫いて仕える者として歩まれ、最後は自分自身を私たちの罪のためにお捧げになられたのです。キリストを見るとき、人は何と高慢な生き方をしているのだろうかと考えさせられます。キリスト者が成長するとは遜った人になることではないでしょうか。
 こんな話があります。120年ほど前にブッカー・ワシントンという高名な黒人の教育者がいました。彼は、大学の学長に就任しました。ある日、町を歩いていると、白人女性が「薪割りをしないか。」と声を掛けました。そこで彼は、急ぎの用もないので薪を割って、暖炉まで運んであげました。後に彼女は、彼が大学の学長であることが分かり、彼を訪ねてその非礼をお詫びしました。そのとき、ブッカーは「力仕事を時々して楽しんでいるのですよ。それに友のために何かできることをするのは、いつでも喜びですよ。」と答えたそうです。
 遜り!これこそキリストの心です。私たちもそれをいただきたいものです。
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by sayama_church | 2007-12-10 16:51 | 牧師の窓 | Comments(1)

聖霊のバプテスマ

 先週の主日にM兄が洗礼を受けられました。若いときにキリストに出会い、キリストと共にある人生を送り始めることは、すばらしいことです。心から祝福を祈りたいと思います。
 ところで、洗礼とは水のバプテスマのことです。水のバプテスマとは、主イエスを受け入れた人がその信仰を公に告白するものです。これは主イエス様によって命じられている礼典で、その意味するところは、神なき人生にピリオドを打ち、悔い改め、これからの人生はキリストの命に生かされた、神と共にある人生であるということを、信仰によって表明するものです。それは、すばらしい恵みと祝福の瞬間です。
 しかし、聖書はさらにこのようにも語っているのです。「私はあなたがたに水のバプテスマを授けましたが、その方(主イエス)は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(マルコ1:8) 水のバプテスマは、キリストの十字架と復活は私のためであったという信仰を告白します。しかし、聖書はキリスト者をさらに深い恵みへと招いています。それは聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマとは、ある人々が言うような異言を語ったり、電気にうたれたような特別な経験をすることではありません。もっと深い内面的な満たしです。自分は全く神のものとされた、内側に聖霊が内住されているとの確信です。主イエスは私たちの罪のために十字架に掛かられ、よみがえられましたが、また私たちに聖霊をお注ぎになられたのです。クリスチャンはこの聖霊に励まされ、導かれ、生きる人なのです。
 「信じたとき聖霊をうけましたか。」 使徒19:2
 
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by sayama_church | 2007-12-02 22:47 | 牧師の窓 | Comments(0)