因果応報という言葉があります。「良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある」という意味でしょう。聖書にもそれ似た言葉があります。「人は種を蒔けば、その刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:7)
あるときイエスが弟子たちと道を歩いていたときに、生まれつき盲人の乞食がいました。弟子たちはイエスに尋ねました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2)
因果応報が人生を前向きに良いことをして生きるための動機付けとなる言葉として用いられるのでしたらば結構なことです。前述のガラテヤ6:7の聖書の御言葉は、まさにそのような意味合いで記されています。けれども、悲しいことにたいていの場合は、不幸の原因を探すために用い、時には当人が到底与り知らない出来事に結び付けられて、宿命論に落ち込むことがあります。そうなると悲惨です。弟子たちの質問にもこうした考え方が見られます。けれども主イエスは答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして盲人の目を開けられました。
今の私たちの現状が、どんなにマイナスとしか思えなくても、主イエスのもとに来るならばそこは必ず祝福の始まりとなります。マイナスが祝福となるのです。例えそれが私たちの過去の罪、過ちが原因していたとしても、私たちの罪のために磔にされた主イエスの十字架が立てられています。神は主イエスにあって罪を赦し、前に向かって立たせて下さいます。神は私たちを断罪しようとされているのではなく、主イエスにあって将来と希望を与えようとしておられるのです。