クリスチャンになったら困難や悩みが無くなるかと言うとそうではありません。苦難や試練にクリスチャンも会います。けれども、その意味合いは全く異なります。そこには、神に愛されている子としての希望があります。
聖書は、次のように語ります。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」ヘブル12:7~10
ここに「訓練」「懲らしめ」という2つの言葉が出てきますが、原典のギリシャ語では、両者とも同じ言葉が使われています。それは、父が子を正し、教え、訓練するため叱ったり、懲らしめたりする意味の言葉です。ですから聖書は、私たちが、試練や困難に会うのは、神に愛されている子であることの証拠だと言うのです。悲しいことに、人は試練や困難を通して、初めて自分の心の汚れや罪深さに気が付きます。自己中心な間違った歩みをしていることを悟ります。そして悔い改めて神に近づくのです。
牧師である私も、しばしばそうしたことを経験しています。