土の器

 先週の世話役会で、こんな発言がありました。「新しい方や求道者がお出でになられたときは、皆が心から迎え、挨拶をしたり、声をかけたりしましょう。」そのとき、お一人の方が、言われました。「挨拶したり、世間話をしたりすることはできるが、信仰の話となると、自分は相手のつまずきになるような気がして心配だ。」
 とても謙虚な、正直な発言だと思いました。また神を恐れる心があるからこそ出てくる言葉でもあることも良くわかりました。しかし、後日こんな言葉が心に通ってきました。
 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)
 恐らく、だれ一人として自分は立派な信仰者であると胸をはれる人はいないでしょう。むしろ、弱くて、もろくて、過ちを犯しやすい、まさに「土の器」であると感じています。ただキリストの十字架の功により頼むのみです。ところが、この土の器の中に宝をもっているのです。栄光の神が宿っておられるのです。さらに驚くべきことは、神はこの土の器であり、罪人である私たちを用いて、ご自身の力と栄光を明らかにしようとされているのです。ですから私たちは自分自身を見つめて失望する必要はありません。イエスに目を注ぎ、イエスに期待しましょう。
 同時に、イエスに自分の心の領域、生活の領域を、示されるままに捧げ、明け渡すことも大切です。ある方は、イエスを心の玄関と居間にだけ通し、決してイエスのご支配にゆだねようとしない秘密の部屋を持ちます。しかし、イエスは私を迎えよ。私の支配にゆだねよ、と言われます。イエスをすべてとする人は幸いです。

(2006.2.5)
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by sayama_church | 2006-03-09 19:18 | 牧師の窓 | Comments(0)
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