先週、駅頭でクリスマスの案内のチラシを配布していたときです、一人の若い女性に尋ねられました。「キリスト教は、自己犠牲がなければダメなのですか?」 彼女は続けました。「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ、などキリスト教は自己犠牲を強いる。教会に行ったことがあるけれども、本当に私のような人間が身を置いてよいのだろうかと思ってしまいました。悩んでいる若い人は一杯いるけれどもキリスト教は敷居が高すぎます。」
もしかしたら、こうした思い、あるいはこれに似た考えを抱いている人は結構いるのではないでしょうか。もしそうでしたらとても悲しいことです。主イエスはこう言われます
。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
主イエスが「右の頬を打つ者には左の頬も向けよ」などと言われたのは、そうしたことができない私たちの本当の姿、愛の無さ、弱さ、罪を示されたのです。弱さと罪にまみれた私たちの真の姿に目を向けさせられたのです。そして、主イエスは罪人なる私たちの罪を担って身代わりに十字架で神の裁きを受けて下さいました。
弱さと罪を感じている人よ、あなたこそキリストに招かれているのです。