先週の祈祷会で次の御言葉を開きました。実に考えさせられる御言葉ではないでしょうか。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」(使徒9:4)
サウロ(後のパウロ)は、神に逆らう道を歩んでいるとは、決して思ってはいませんでした。むしろ、自分は正しい道、義の道を歩んでいると確信していたに違いありません。彼の正しさが、彼をしてキリストの教会の迫害へと向かわせたのです。
自分は、「正しい」「間違ってはいない」という確信は、必ずしも否定されるべきものではありません。けれども、時としてその思い込みが「頑なさ」「強情」となり、キリストにある周囲の人々を傷つけてしまうことがあります。それどころか、主イエス様のお心を痛め、迫害することになってしまうことも起こり得ます。
日本の教会史の中には、随所に分裂を見ることができます。日本宣教会も103年の歴史の中に傷ましい分裂を何度か経験しています。それらは「正しさ」と「正しさ」のぶつかり合いだったのではないでしょうか。また、もし教会の中に対立が生じることがあったとしたら、それもきっと「正しさ」と「正しさ」のぶつかり合いなのだと思います。
キリストにある者が、正しくないことを言うことは、まず考えられません。人にはそれぞれの正しさがあります。しかし、大切なことは、自分の「正しさ」に固執して「正しさ」を主張することではなく、主イエスの御霊の声を聞き、それに従い、御霊に調和して歩み、行動することなのです。そうでないと正しさを主張しながら、主イエスを迫害していることになりかねません。