カテゴリ:牧師の窓( 616 )

相対的

相対的と言う言葉を時々耳にします。意味を調べてみるとこのようにありました。「他との関係において成り立つさま。または他との比較の上に成り立つさま。」例えば、方角は絶対的ですが、方向は相対的です。北、南などの方角は変わることはありませんが、右、左などの方向はその人の立つ位置によって変わります。と言うことは、相対的な存在、価値は、時代や環境によって絶えず変わるものです。

 悲しいことに、人間は相対的な存在です。Aさんに恋心を抱いても、やがてBさんという素敵な人が現われると心変わりします。だれもが排他的、絶対的な愛を求めていますが、人の心は平気で変ってしまいます。それゆえに傷つくのです。人間は状況、環境によって変わるので絶対的信頼は置けないことはだれもがうすうすと感じています。また社会も善悪の価値も倫理も何もかもが時代や環境によって揺れ動き、変わる相対的なものばかりです。

 私たちは、心のどこかで変わらないもの、絶対的なもの、真に信頼できるものを探していないでしょうか。時代、環境、文化によっても変わらない確かな価値や生き方を求めてはいないでしょうか。聖書には驚くべき言葉があります。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつもでも、同じです。」(ヘブル13:8)「わたし(イエス・キリスト)が道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6

 イエス・キリストこそ、全存在をかけて信頼できる方です。彼を信じ、彼の言葉に従って歩むときに私たちは、変わらない確かに歩みをすることができるのです。


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by sayama_church | 2018-02-18 15:35 | 牧師の窓 | Comments(0)

からだの救い

 いつまでも若いつもりでいるので、時々家族から笑われますが、さすがに鏡の中の自分を見ると年齢を感じさせられて、愕然といたします。髪の毛は白く薄くなり、肌は皺だらけ、おまけにシミまで目につきます。「もう自分の年齢を考えて」と家内に言われるのも分かるような気がしてきます。

 しかし聖書は次のように言います。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」ローマ8:11

 私たちのからだは、「死ぬべきからだ」であり、間違いなく死に向かっています。ところが神は、この「死ぬべきからだ」を「御霊によって生かしてくださる」と聖書は約束するのです。罪の結果滅びに向かっている魂、不安や恐れや孤独などの暗黒に沈んでいる心を神は救って下さるだけではありません。私たちの肉体、体をも顧みてくださるのです。救って下さるのです。

私は、病の癒しを信じます。細胞を若返らせて下さる御霊の力を信じます。そして、究極的なからだの癒し、すなわち終わりのときに神はキリストにある者が栄光の体によみがえらせることを信じています。

 主イエスは、私たちをまるごと救ってくださる方なのです。


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by sayama_church | 2018-02-11 19:55 | 牧師の窓 | Comments(0)

罪の贖い

 先日、居間に入るとテレビがついたままになっていました。何気なく目を遣ると登場人物が「私にとっての仕事は、罪の贖いのためである」と言うのを聞いて、とてもびっくりしました。たまたま目にしたので、何の番組かも、どんな文脈での言葉だったのかも分かりませんでしたが、キリスト教用語とばかりに思っていた「罪の贖い」が、一般でも使われるのだと知りました。発言者は、きっと一生懸命に仕事をして社会に貢献することを通して良心の呵責となっている罪の償いをするという意味で使ったのでしょう。

ところで聖書は次のように言います。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:7

だれの心の中にも、どこかに罪の意識が隠れています。罪責感です。しかし、神の御子であるイエス・キリストは、過去、現在、未来の全人類のすべての罪を十字架によって贖われたと聖書は語ります。神の前における人間の罪は、どんな修行、努力、償いによっても贖うことができない。ただ罪のない神の御子なるキリストの血によるというのが聖書のメッセージです。

社会や他者に対する罪は、償いをすることによってあるいは解決するでしょう。けれども、私たちの永遠を決定する神に対する罪は、御子イエスの血による贖いしかありません。主イエス・キリストの十字架が私の罪のためにでもあると受け入れる(すなわち信じる)ならば、だれでも救われます。神の子となるのです。


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by sayama_church | 2018-02-04 20:06 | 牧師の窓 | Comments(0)

ヤベツの祈り

 皆さんにお渡しする「2018年度の祈りの栞」がジャーナルチームのご労によりまして出来上がりました。感謝いたします。ご覧いただきますと分かりますが、今年も最後のページにヤベツの祈りが載せてあります。

 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。(Ⅰ歴代誌4:10

 ヤベツとは、「苦しみ」「痛み」という意味です。ヤベツは、大胆にも「私を大いに祝福してください」「私が苦しむことのないように」と自分の名前と逆のことを求めることによって、運命を変えてしまいました。聖書は、「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。」(同4:9と記しています。彼は一族の頭となったのです。

 私たちも、神の栄光が私たちを通して現わされるように「私を大いに祝福してください。」と祈ろうではありませんか。「地境」とは、働きの可能性を表します。主イエスを知る人が私を通して増え広がっていくように「私の地境を広げてください」と求めようではありませんか。私たちは、自分の力では何もできず、誘惑や試みに弱いのですから「御手が私とともにあるように」「わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてください」と祈りましょう。

 主は、必ず心からの真実な祈りに応えて下さいます。「祈りの栞」を用いて、ぜひ毎日お祈りください。


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by sayama_church | 2018-01-28 19:53 | 牧師の窓 | Comments(0)

すべての人を歓迎いたします!

 ようこそ、ウエルカム礼拝にお集まり下さいました。私たちの教会のキャッチフレーズは、「すべての人を歓迎します!」です。主イエスがこう言われているからです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28

 お釈迦様は、人間の根源的な苦しみは、生老病死と言われました。老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみは、分かりますが、生まれること、生きることそのものが苦しみであると言うのは、少々驚きます。けれども、考えてみれば、生まれ、生きることがなかったら苦しむこともないのですから、生まれ、生きる苦しみと言うのも分かる気がいたします。また、生きることそのものが辛いと感じるような苦しい中を通ることが人生にはあることも事実です。お釈迦様は、修行によってこうした苦しみから解脱する悟りを開いたのですが、私たちのような凡人が、お釈迦様のように悟りを開くことは、まず不可能でしょう。本来、お釈迦様の教えは、人間の努力と修行によって自分自身が獲得するものですから救いではありません。ごく一部のエリートのための教えです。

 けれども主イエスは、疲れた人は疲れたまま、重荷を負っている人は重荷を負ったままで「わたしのところに来なさい。」と言われたのです。自分の力で解決できないことを主イエスが代わりに成し遂げてくださるのです。

 今も生きて働いておられる主イエスを信頼して、祈ることから始められたらいかがでしょうか。
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by sayama_church | 2018-01-21 20:06 | 牧師の窓 | Comments(0)

神の御言葉を語り続ける

 毎年、私たちの教会は聖書の御言葉から教会標語を掲げています。この年は、次の御言葉が与えられました。

恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。(使徒18:910

 神を知らないこの世に対して救い主であるイエス・キリストを伝えようとするときに、反対や拒絶を受けるのではないかとの恐れがだれの心にも生じてきます。この御言葉は、直接的にはコリントの町に福音を語ろうとした使徒パウロに対して主が語られたものですが、勇敢にして大胆なパウロにしても同じだったのです。しかし、迷い、悩み、不安、恐れ、苦しみ、心の渇きに対して、真の希望、癒し、平安、救いを与えることができるのは神の御言葉だけです。そして神の御言葉である聖書はイエス・キリストを指し示します。私たちの教会は、神の愛を具体的に表わすために福祉や教育に対するヴィジョンを持っていますが、人々を根本的に真に救うことができるのはイエス・キリストであると信じていますので、恐れることなく神の御言葉を語り続けたいと思います。

さらに驚くべきことに一見するとイエス・キリストを受け入れる人があまり起こりそうにないコリントの町について主は「わたしの民が沢山いる」と言われています。私たちの地域にも救われる人が沢山いると主は言われているように思えてなりません。

 新しい年、聖霊によって神の御言葉を大胆に語り続ける教会であり、私たち一人ひとりでありますようにと祈りましょう。


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by sayama_church | 2018-01-14 19:55 | 牧師の窓 | Comments(0)

こころざし

 明けましておめでとうございます!昨年中の主にあって表わして下さいました皆様のご愛に心から感謝しています。 

ところで、聖書の中にこのような御言葉があります。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」ピリピ2:13,14

 年の始まりに立ち、この1年に対してどのような願い、期待、求めを抱いておられるでしょうか。クリスチャンは自己実現のために生きてはいません。神の栄光を現わすために生きています。私は時々このように祈ります。「主よ。私の存在、歩み、成すことを通してあなたの栄光を現わして下さい。私の存在そのものを神の栄光、奇跡として下さい。こんな罪深い、弱い、取るに足りない人間を通して神はどんなことをも成すことができることを示して人々が神の栄光をほめたたえるようにして下さい。」

 神に創造され、生かされている私たち一人ひとりには、自分が考える以上の可能性があります。自分自身を神に全く明け渡し、捧げて、人生の焦点を神の栄光を現わすことにピタッと合わせるならば、神の御霊は私たちの内側に働いて成すべき志を与えて、事を行なわせて下さいます。新しい年のお一人お一人の祝福を心からお祈り申し上げています。


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by sayama_church | 2018-01-07 17:49 | 牧師の窓 | Comments(0)

1年の終わりに立ち

 アッという間にこの1年も過ぎようとしています。2017年が終わり2018年を迎えようとしています。1年の終わりに立ち、過ぎし日々を振り返り、私たちは何を思い、何を祈るのでしょうか。

 詩篇の記者は言います。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇13923-24

 私たちは、まるでこの地上における生涯がすべてであるかのように生きています。成功した、失敗した。他者から認められた、理解されなかった。得をした、損をした。こうしたことに一喜一憂します。しかし、詩篇の記者は、「とこしえの道に導いてください」と永遠に目を留めます。

 1年が過ぎたということは、私たちは永遠の世界に一歩近づいたことです。人生の終わり、歴史に終わり、時の終わりに。そうであるならば、この詩篇の記者のように「私の思い煩いを知ってください」「私にうちに傷のついた道があるか、ないかを見てください」と祈り、罪が示されたならばそれを悔い改め、心を新たにして新しい年を迎えるべきではないでしょうか。

 ありのままを主にさらけ出し、十字架に拠り頼んで主の御顔を仰ぎ、新しい年を迎えさせていただきましょう。


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by sayama_church | 2018-01-02 18:09 | 牧師の窓 | Comments(0)

罪からの救い

 クリスマスおめでとうございます!しかし、考えてみたら不可解なことです。クリスマスの何がおめでたいのでしょうか。クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念する日です。(誕生日ではありません。イエス・キリストの誕生した日を特定する資料は聖書にはありませんから。)でも、イエス・キリストの誕生がどうしてそんなに喜ばしいのでしょうか。

聖書に、こんな御言葉が記されています。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21

イエス・キリストの生涯は、確かに異彩を放ち、注目に値するものでした。その教えには権威があり、その御業には力がありました。湖の上を歩き、5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の腹を満たし、病人を癒し、死人を生き返らせまでしています。そればかりか、品性は愛と清さに満ちていました。

けれども、こうしたことの故に、イエス・キリストの誕生が喜ばしいのではありません。こうしたことは、彼が特別な存在(聖書は神の御子と証言している)であることを示してはいても、私たちにとって必ずしも喜ばしいとは言えないでしょう。

イエス・キリストの誕生が喜ばしいのは、彼が私たちを罪と罪の結果の死から救って下さるからです。私たちの犯した罪の呪いをすべて十字架に負われ、私たちと神とを隔てている罪を解決し、神が共にいて下さる祝福の道を開かれたのです。キリストにあるとき罪は赦され、神が共にいて下さる!そんな素晴らしい恵みはありません。


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by sayama_church | 2017-12-26 21:50 | 牧師の窓 | Comments(0)

おめでとうございます! 

 今日は、M姉の洗礼式です。普段、早朝礼拝を守られているので、早朝礼拝において行います。

M姉が初めて教会に見えたのは、今から5,6年前でした。早天祈祷会に小学生の女の子が現われたときは、何かに思い悩んでいた私には、まるで神さまが送って下さった天使のように感じ、慰めと励ましを受けました。やがてお母さんも教会に導かれるようになり、お姉さんも時々顔を見せてくれるようになりました。

洗礼は、主イエス様を救い主として信じる信仰を公に表明するときです。クリスチャンとしてのアイデンティティをもって歩み始める第一歩です。自他ともにクリスチャンとして認めることになるので、もしかしたら日本のような異教社会では勇気がいることかもしれません。けれども、主イエス様はこんなことを言われました。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ103233

M姉は、確かに主イエス様に覚えられています。主イエス様がいつも、どんな時にも一緒にいて下さいます。洗礼準備講座で学んだように、お祈りをささげること、聖書を読むこと、礼拝を守ることを大切にしながら、主イエス様に従って歩んでください。受洗、おめでとうございます!


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by sayama_church | 2017-12-19 14:24 | 牧師の窓 | Comments(0)