カテゴリ:牧師の窓( 639 )

不条理 

 ときどき人生の不条理を感じることがあります。「どうして私はこんな苦しみに会わなければならないのか?」などと思ったことはないでしょうか。しかし、考えてみれば人生は不条理だらけです。生まれたときから不条理です。ある人は裕福の家庭に生まれ、ある人は貧しい家庭に生まれます。ある人は豊かな才能に恵まれ、ある人は凡庸です。

 旧約聖書にヨブという義人が登場します。彼は財産や子どもを失い、さらには全身をできもので覆われて土器のかけらで身をかくような苦しみを受けます。ヨブは、この不条理な苦しみの意味を求めましたが、見出せませんでした。ヨブの友人は、「ヨブが神の前に正しくなかったからだ。」と言いましたが、その答えは、ヨブに何の救いも希望をもたらさず、ヨブの反発を生むだけでした。

ほとんどの場合に不条理の理由は隠されています。神の主権の中に隠れています。私たちに求められているのは、不条理の理由を尋ね求めることではなくて、不条理にどのように対応して、乗り越えていくかなのではないでしょうか。不条理をかかえこまない人生などありません。しかし、人生の醍醐味は、不条理にどのように対応して、乗り越えていくかにあるのです。

人生に対して後ろ向きになったり、あきらめたりしてはなりません。神は、私たちを立ちあがらせ、前に向かって歩んでいく力を与えて下さるのです。

「というのは、すべてのことが、神から発っし、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン」ローマ11:36


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by sayama_church | 2018-07-22 20:25 | 牧師の窓 | Comments(0)

御言葉への聴従

先日お会いした一人の老齢のクリスチャンがこんなことを口にされました。「聖書を読まないクリスチャンが多いように思う。」彼が言う「聖書を読む」とは、通読の意だそうです。さらに言うには、「どれだけのクリスチャンが御言葉に聴従しているのだろうか。」少し厳しい見方ですが、真実を突いているのかもしれないと思いました。

 聖書はこのように言います。「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」ヤコブ1:22

 以前、私の尊敬する牧師が、「悔い改めてもう不平、不満、人の悪口を言わないことを心に決めました。Ⅰテサロニケ516節~18節にあるようにいつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝するようにしたいと思います。」と講壇から語っているのを聞いて、その正直さに少し驚いたことがありました。私自身もついつい不平、不満やその場にいない人のマイナスになるようなことを口にしてしまうことがあります。

 私たちがもし神のダイナミックな力と神の親しい臨在を経験することが乏しいのだとしたら、いつのまにか神の御言葉を読み、聞き、それに従うことから遠ざかっているからかもしれません。神との親しい交わりの中に聖書を読み、神の御言葉に聞き従う歩みをさせていただきたいと願わされたことでした。


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by sayama_church | 2018-07-15 20:30 | 牧師の窓 | Comments(0)

苦しみから生まれもの 

子どもの頃、母によく言われたものです。「あなたは、まだ苦労をしていないから。」そう言われて育った私は、「人は苦労をしなければ一人前にはなれない。」との思いを無意識のうちに持つようになりました。母は、満州からの引き揚げ者で、苦労人でした。

 けれども、様々な人たちに出会う中で、だんだんと私は母が言っていたことは一面の真理ではあるが、「必ずしもそうとは限らないのでは?」と感じるようになりました。苦労や苦しみは、ある場合には他人を思いやる優しさや深みのある円熟した人格を育むのですが、ある場合には、ひねくれ、屈折した、ひがみっぽい性格を生み出すようにも思えたのです。

ひとりの痛ましい生い立ちを経験した牧師が、こんなことを言っていました。「苦しみの意味を問うても答えはでない。苦しみにどのように応答するかに意味がある。」「どうして私にこんなことが起きたのか?なぜ私がこんな目に合わなければならないのか?と問うても行き詰まり、精神が破綻するだけである。」

生まれながらの容姿や能力、育った環境、これまでの経験、現在の状態を嘆き、悲しみ、不満を持つ人は多くいます。そこにとどまる限りは何の祝福もないでしょう。けれども、すべてのことを神様の摂理として受け止めて、それに対してどのように応答していくかが問われているのであると受け止めて主とともに歩んでいくときに、苦しみの意味が明らかになり、すべてのことが益となったことを知るのではないでしょうか。苦しみが祝福となるのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28


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by sayama_church | 2018-07-08 20:08 | 牧師の窓 | Comments(0)

真理

 先週は、大失敗をしてしまいました。木更津の教会での礼拝奉仕に遅刻してしまったのです。

狭山から木更津までは3時間弱かかるので、早朝礼拝を早めに終えて、家内に駅まで車で送ってもらい、車中の人となりました。「やれやれ、これでなんとか時間までに到着できる。」とひと安心したのですが、何と、途中電車を乗り間違えてしまったのです。間違いなく千葉行きの電車に乗ったつもりが、逆行きでした。自分の思いこみや確信がいかに当てにならないかを痛感させられました。

ところで聖書に次のような御言葉あります。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師記21:25士師記の時代は、人々が「自分の目に正しいと見えることを行なっていた」のですが、社会の道徳的、倫理的水準は、地に落ちていました。現代の私たちも、自分にとって正しいこと、良いと見えること、納得できることを行なうことを是とする風潮に生きていますが、社会も個人も混迷を深め、迷い、悩んでいるように思えてなりません。

人間には、時代、地域、国、文化、習俗が変わっても変わらないもの、すなわち真理が必要なのではないでしょうか。ちょうど大木が何百年経っても変わらずに同じ場所に立ち続けているような揺り動かされないものを。わたしは、それを聖書に、そして聖書が啓示するイエス・キリストに見出しました。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6


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by sayama_church | 2018-07-02 22:09 | 牧師の窓 | Comments(0)

人を裁く

 私たちが安易に犯す罪の一つは、「人を裁く」ことかもしれません。しばしば心の中で、あるいは言葉や行動をもって他人を断罪いたします。

私は、あるとき同じ伝道者仲間に対してあまり良い感情を持つことができなくなったことがありました。それは、彼がした行為があまり好ましく思えなかったからです。けれども、主は私に対してこのように語り掛けられました。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:2)

他人に対して厳しい物差しを持ち出して当てはめるならば、その物差しで自分も量り返されると主は言われたのです。あらためて考えると自分にも本質的にはあまり変わらない心があることに気付かされました。

私たちは、他人の行動の表面的なことしか分かりません。背景や事情などは隠れて見ることができません。本当に裁くことのできるのは、実は神様だけなのです。私たちがすることは裁くことではなくて、祈ることではないでしょうか。私も前述の方のために祈り始めたときに心に平安がやってきました。


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by sayama_church | 2018-06-24 20:29 | 牧師の窓 | Comments(0)

因果応報?

 因果応報という言葉があります。「良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある」という意味でしょう。聖書にもそれ似た言葉があります。「人は種を蒔けば、その刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:7

あるときイエスが弟子たちと道を歩いていたときに、生まれつき盲人の乞食がいました。弟子たちはイエスに尋ねました。「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(ヨハネ9:2

因果応報が人生を前向きに良いことをして生きるための動機付けとなる言葉として用いられるのでしたらば結構なことです。前述のガラテヤ6:7の聖書の御言葉は、まさにそのような意味合いで記されています。けれども、悲しいことにたいていの場合は、不幸の原因を探すために用い、時には当人が到底与り知らない出来事に結び付けられて、宿命論に落ち込むことがあります。そうなると悲惨です。弟子たちの質問にもこうした考え方が見られます。けれども主イエスは答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ9:3そして盲人の目を開けられました。

今の私たちの現状が、どんなにマイナスとしか思えなくても、主イエスのもとに来るならばそこは必ず祝福の始まりとなります。マイナスが祝福となるのです。例えそれが私たちの過去の罪、過ちが原因していたとしても、私たちの罪のために磔にされた主イエスの十字架が立てられています。神は主イエスにあって罪を赦し、前に向かって立たせて下さいます。神は私たちを断罪しようとされているのではなく、主イエスにあって将来と希望を与えようとしておられるのです。


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by sayama_church | 2018-06-17 20:07 | 牧師の窓 | Comments(0)

痛みと苦しみ

だれにでもきっと苦い思い出というものがあるでしょう。挫折、失敗、他者から受けた傷・・・人はそれぞれに何かしらの痛みを心のどこかに抱えているものです。普段は心の奥底に封印していても、何かの折に思い出されて、かさぶたが取れて血が噴き出すような心の疼きを感じることもあります。

 聖書に次のような御言葉があります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

 この御言葉はありがたい約束です。神を信頼し、愛するときに、すべてのことが益となるというのです。人となってこの地に降りてこられた御子イエス・キリストのことを考えてみて下さい。彼はだれよりも痛みと苦しみを味わられました。人に捨てられ、除け者にされ、罵り嘲られ、ついには十字架の死です。けれどもイエスは、すべての苦しみを父なる神の許しと御心にあると受け止められたので、十字架の苦しみは全人類の罪の贖い、救いの道と変わりました。

 人が抱える心の痛み、疼~劣等感、挫折、失敗、他者から受けた傷・・・等々~は、そう簡単には癒えるものではありません。けれども、神は私たちを慰め、癒すことができます。そして、もしそれらを神の摂理の中にあるものとして受け止めることができたならば、過去、現在の痛みと苦しみの経験は、すべて益となり、将来に向かって大きな実を結ばせるものとなるのではないでしょうか。聖書はそう約束しているのです。


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by sayama_church | 2018-06-10 20:27 | 牧師の窓 | Comments(0)

被造物全体のうめき

 私は子どもの頃から肉が苦手でした。鶏肉は脂身がないので美味しく食べられたのですが、脂身のある豚肉になるといたってダメで給食に出てくると、そっと残したものでした。神学校では昼はうどんと決まっていましたが、ときどきスジ肉たっぷりの麺汁がかけられている時があり、残すことは許されなかったので拷問としか思えませんでした。あるときフッと思いました。「肉は、命ある動物を食べることなのだから結構残酷なことだ。」

確かに自然界は残酷で弱肉強食の世界です。強い生き物が弱い生き物を食べるのはあたりまえです。さすがに人間同士の間ではそんなことは許されないことはだれもが承知していますが、人間の心の底流にある本質となると、さほど変わりがありません。経済という名の下に、強い者、富める者は弱い者を踏みにじり、利用し、食いものすることがあります。先進国と発展途上国との間で、企業と労働者との間で、豊かな人と貧しい人の間で、そうしたことが見られることがあります。私たちが生きている世界は実に弱肉強食です。

ところが聖書には、驚くべき言葉があります。「狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、・・・」(イザヤ65:25これは、主イエス・キリストの再臨後の世界の姿を示しています。主イエスが治め、キリスト者が主イエスとともに王となる世界です。食うか食われるかの争いはありません。

人間が神から離れて自己中心に走った罪の結果、人間のみならず被造物全体が苦しみうめいています。しかし、主イエスの十字架のよる贖いによって、人間のみならず、やがて被造物全体が救われるのです。キリスト者は、やがて神が再創造される新しい世界を待ち望んでいます。


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by sayama_church | 2018-06-03 20:08 | 牧師の窓 | Comments(0)

日大アメフト部

 ここ数日、日大のアメフト部の反則行為を巡ってメデイアが騒然となっています。反則行為をした選手が会見を開いて真摯な謝罪と経緯を説明したことに世論は同情し、そうした行為を指示した(?)と思われるコーチ、監督に非難が集中しているようです。報道を聞いていると、どうやら監督、コーチが、とても有望ではあるが優しい性格の選手の闘争心を掻き立てるために敢えて精神的に追い込んでこのような行為をさせたようです。

 私は、このニュースにカインのことを連想しました。カインは、土を耕す者で収穫した作物を主へのささげものとしましたが、主は目を留められませんでした。自分の手の業によって神に受け入られようとしたからだと思われます。一方で弟のアベルは神の憐れみを求めて羊の初子、しかも最良のものをささげて神に受け入れられます。カインはアベルを殺しました。そして彼は神を呼び求めるのではなくて自分の力だけに頼って生きる人々の始まりとなりました。

私たちが生きている世界は、カインの価値観が支配している世界です。自分の力と手の業がすべてであり、それを誇り、それによって生きる世界です。人に求められるものは強さです。たとえ他人を踏み倒してでも勝たなければ意味がありません。日大の監督は、こうした価値観の中で成功し、それを部員にも徹底的に教え込もうとしたのかもしれません。

しかし、こうした世界で、心が傷つき、精神のバランスを崩す人が後を絶たちません。今日の社会の不安の遠因の一つはそこにあるように感じられます。福音によってこの世界が変わる必要があるのではないでしょうか。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ1:35


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by sayama_church | 2018-05-27 20:01 | 牧師の窓 | Comments(0)

ペンテコステの恵み

主イエス・キリストの十字架と復活によって信仰者に与えられる神の最大の賜物は聖霊です。罪の赦し、永遠のいのち、神の子とされる特権、復活の希望、神の国を受け継ぐ約束・・・など主イエスによってもたらされる救いには多くの祝福がありますが、聖霊が与えられること以上に計り知れない恵みはありません。なぜならば、神の霊が人を住まいとされるからです。

 聖書はこう言います。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」(Ⅰコリント6:19

 旧約聖書の時代は、神の臨在の象徴として契約の箱がありました。モーセは幕屋に、ソロモンの時代以降は神殿に契約の箱を安置して、イスラエルの民は神が自分たちと共にいて下さることを確認いたしました。しかし、神の霊が人に宿ることは、王や祭司、預言者など神からの特別な使命を授けられた人に限られました。ところが、今や主イエスの十字架と復活により、主イエスを信じるすべての者に聖霊が注がれるのです。

 聖霊は心の渇きをいやし、いのちを与えます。聖霊は罪に打ち勝ち、主イエスに従う力を与えます。聖霊は真理を悟らせ、進むべき道を教えます。聖霊は慰めと希望をもたらします。聖霊は御国を受け継がせます。けれども残念なことは、あまりに多くのキリスト者が聖霊の満たしを知りません。聖霊によって歩みません。それゆえに力のない、魂が渇き、道に迷ったキリスト者がなんと多いことでしょうか。こうした人は実は主イエスが与える恵みに真の意味では生きていないのです。未だに罪と自我に縛られて生きているのです。

罪を告白して捨て、自我を明け渡したときに聖霊に満たされます。聖書が語るキリスト者のあるべき姿は、聖霊に満たされた人です。ペンテコステの恵みを受けて下さい。


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by sayama_church | 2018-05-20 20:18 | 牧師の窓 | Comments(0)