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カテゴリ:牧師の窓( 687 )

生きることに希望がある

 もし、人生は「死をもって終わる」としたら、生きることに空しさを感じるのは私だけでしょうか。

振り返るときに、私は何人もの立派な人物に出会いました。功績があり、世間の評判、仲間内の評価もすこぶる良い人たちです。けれども、亡くなると瞬く間の内に人々の記憶から消えていくのです。ヨブはこんなことを言っています。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。・・・しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。」(ヨブ14:7-10

どんなに苦労を重ねて人々に尽くしても、りっぱな業績を挙げたとしても、人は死をもって終わるとしたらやはり空しいです。けれども、キリストを信じる者は、大きな希望と慰めを持っているのです。キリスト者は、十字架の血潮による罪の赦しを信じているだけではなく、キリストの復活と再臨を信じています。キリストが再臨されるとき、キリストにある者は、キリストが復活されたように栄光のからだによみがえります。そして、千年の間、主とともに地を治め、最後の審判の後に新天新地を受け継ぐのです。私たちの労苦には、報いがあるのです。

結局、人生において永遠に残るものは何でしょうか。神との関係だけです。「神との関係で私たちがいかに生きたか。どのように生きたか。」ということだけが永遠に残り、神の報いを受けるのです。「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っている」Ⅰコリント15:56


by sayama_church | 2019-06-24 22:40 | 牧師の窓 | Comments(0)

誕生日

 先週、50代最後の誕生日を迎えました。月日の経つ早さ、人生のスピードの速さを感じます。10代、20代の頃が昨日のように感じられます。

 誕生日を迎えるにあたって次の御言葉が与えられました。「わたしについて来なさい。」マルコ1:17

 以前の私は、「わたしについて来なさい。」という主の招きの言葉は、「従わなければならない。」という厳しさを感じることがしばしばありました。しかし、今は深い主のご愛を覚えています。

616日発行のクリスチャン新聞に福島ベテル教会の金基順牧師が紹介されていました。彼女はこんなことを言っています。「しくじって、罪を繰り返し、泥だらけの私たちをあきらめないで、愛してくださる。だから『私も(主を)愛します。』この告白の延長線上に牧会があり・・・」

私も同じような気持ちです。振り返るとき、何度も失敗し、躓き、御心から外れた私でした。そんな罪びとを、主はあきらめず、見捨てず、赦し、受け入れて、「わたしについて来なさい。」と何度も語りかけて下さいました。そこに深い主のあわれみと愛を覚えます。それゆえに私も心から主を愛して、従っていきたいと思っています。


by sayama_church | 2019-06-16 16:07 | 牧師の窓 | Comments(0)

ペンテコステ 

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 今日は、ペンテコステを記念する日です。主イエスの十字架、復活、昇天の後に、待ち望む弟子たちに約束の聖霊が注がれました。聖霊は、主イエスの贖いの御業のゆえに信仰者にもたらされる最大の賜物です。聖書の時代だけではなくて、今日も信仰者に与えられるのです。

 主イエスは、こう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37,38

 この御言葉は、主イエスが「祭りの終わりの大いなる日」に言われたと聖書は記しています。宗教的儀式を忠実に守り、仮庵の祭りも最高潮に達しましたが、表面的な賑やかさとは裏腹に人々の心の奥底は霊的に渇いているのを主イエスはご覧になりました。宗教的に真面目で熱心なことは良いことですが、人間の心の霊的な渇きは、宗教的営みという「形」を守っても決して癒されません。主イエスを信じる者に与えられる聖霊だけが人間の心をその奥底から潤し、満たし、癒すのです。「礼拝を守る」「祈る」「聖書を読む」「ささげる」・・・などは決してないがしろにはできない大切な営みでありますが、それらを「形」として守るのではなくて、聖霊との関わり、交わりの中から生まれる営みでありたいものです。

聖霊は、人にいのちを与えます。潤いと活気を与えます。平安、喜び、力をもたらします。聖霊によって歩んでいる人は、自分自身だけではなくて、周囲の人をも生かします。肉(罪深い自我)は、人を殺しますが、聖霊は人を生かすのです。聖霊に満たされ、聖霊によって生きるキリスト者であらんことを!


by sayama_church | 2019-06-09 17:40 | 牧師の窓 | Comments(0)

私の幻

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 聖書に私が憧れ、胸躍らせる一つの絵があります。それは、エゼキエルが見た幻です。彼は、神殿の敷居の下から水が流れ出ているのを見ます。その流れは、先に進むほど水かさが増し、初めは足首ほどの深さでしたが、やがてひざ、腰に達し、ついには泳げるほどになり、渡ることのできない川となりました。

 ここで聖書は次のように記しています。

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」エゼキエル47:9

 この川、この水は、聖霊を意味しています。印象的なのは「この川がはいる所では、すべてのものが生きる」とあることです。聖霊が注がれるとき、そこにキリストのいのちが流れ、人々は真に生きたものとなるのです。今日、社会も家庭も人々の心も、いのちの潤いを失い、荒廃しています。人々にいのちを吹き込み、真に生きた者とするのは、人間の知恵、努力、力ではなくて、学問や教えでもなく、聖霊によると言うのが聖書の主張です。

私は祈っています。私たちの教会が、主イエス・キリストの流された血潮のゆえに注がれる聖霊によって、集われる一人一人がキリストのいのちに溢れるように。私は夢見ています。私たちの教会からエゼキエルが見た幻のように聖霊が流れ出て、いのちの源なる神との交わりを知らずに、霊的ないのちを失い、罪の闇の中をさ迷っている多くの人々が生きた者となることを。私たちの教会に集う一人一人の信徒の腹の底から聖霊が流れでて、関わる人たちを生かし、祝福の基となることを。


by sayama_church | 2019-06-02 18:17 | 牧師の窓 | Comments(0)

あなたは高価で尊い?! 

 先週の夕拝に二人の高校生が参加しました。正確には一人。一人はチャペルの椅子に腰かけてきちんと参加したのですが、もう一人は別室でスピーカーを通して礼拝の様子を聞いていただけでしたので。

彼らは、夕拝に出るつもりで教会に来たわけはありませんでした。ジョイスタデイの子どもたちで、試験前なので教会が提供するスペースで勉強していたところを、軽い気持ちで誘っただけでした。当然、途中で抜け出るか、「退屈だった!」「つまらなかった!」と言われるのが落ちかなと思っていたのですが、終わったら「おもしろかった!」「どうしてこんな素敵な歌を歌っているの?」と言う彼らの言葉に私の方がびっくり。青年たちの心は私が思っていた以上に渇き、霊的なものを求めているように感じました。

聖書にこんな御言葉があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4

私たちの社会は一つの型、枠の中に人を押し込めようとします。また、一つの物差しで人の価値を測ろうします。社会がまとまるためには、致し方のない面がありますが、枠からはみ出る人や社会が有用であると測る物差しでは低い評価しか得られない人は、自分をダメな人間であると思いやすい傾向があります。

聖書は、一人一人の存在の尊さを語っています。神から離れて罪の中に空しくさ迷う私たちを救うために、主イエスが十字架で血潮を流し、いのちを捨てるほどに、人には価値があるのです。そのことを一人でも多くの人に知っていただきたいと強く願わされます。


by sayama_church | 2019-05-27 19:07 | 牧師の窓 | Comments(0)

クリスチャンの役割 

 今は、大きく時代が動こうとしていることを識者が指摘しています。時代の変化だけではなくて、危機を予想する人もいます。中国とアメリカの覇権争い、世界の各地で見られるグローバリズムと国家主義のせめぎ合いなど、確かに不穏なものを感じます。

私は、政治や経済については素人ですので、そうした面は分かりませんが、聖書の視点から日本や世界の行く末に不安を感じることがあります。黙示録の時代に近づいているのではないかと。

 ところで旧約聖書にとても興味深い記事があります。罪に満ちたソドムとゴモラを神が滅ぼそうとされた時、アブラハムがとりなすのです。「アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。』(創18:23,24アブラハムは、五十人の正しい者がいるだろうかと心配になり、神と交渉を重ね、ついには十人の正しい者がいれば滅ぼさないとの確約を受けました。しかし悲しいことに、ソドムとゴモラには10人の正しい人もいませんでした。それで町は滅ぼされましたが、神はアブラハムの祈りのゆえにロトとその家族(娘二人)を救われたのです。

 この罪に満ちた世にクリスチャンが存在する理由はなんでしょうか。アブラハムのように、神の前にとりなしの祈りをささげることではないでしょうか。


by sayama_church | 2019-05-19 20:08 | 牧師の窓 | Comments(0)

神の母の愛

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今日は母の日です。街は母の日をお祝いする人で賑わっていますが、必ずしも母の日を喜べる人ばかりではないかもしれません。母を失った人、母との関係が良くない人など、様々な人がいるに違いないからです。でも、不思議なことに人はどこかで「母の愛」を慕い、求めているように思えてなりません。「母の愛」は、受容。何処までも、どんなになっても我が子を受け入れる愛と言えましょう。

 聖書に次のような御言葉があります。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:14ここで、神の愛は母の愛に比されています。聖書は、神を父と表現することが多く、父は教え、諭し、訓練するイメージがありますが、聖書は神の愛は、父の愛と共に母の愛の面があることを示しているのです。

 遠藤周作は、小説「沈黙」を著しました。江戸の禁教の時代に、イエズス会の司祭ロドリゴが潜入しますが、やがて捕縛されます。ロドリゴは、転べば(棄教すれば)拷問を受けている百姓信徒を助けると迫られ、ついに苦悶の果てに踏み絵に足を乗せます。ところがそのときに彼は主イエスの声を聞くのです。「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さで充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。」ロドリゴは、その瞬間に神は自分たちの苦しみに沈黙していたのではなく一緒に苦しんでいたのに気が付きます。遠藤周作が所属するカトリックから異端視されても表現したのは、神の母の愛だったのかもしれません。

 母の日に、完璧な母の愛(アガペーの愛)で私たちを愛して下さる神に思いを寄せるのも良いかもしれません。
by sayama_church | 2019-05-14 20:33 | 牧師の窓 | Comments(0)

国のために祈る

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平成が終わり、令和の時代に入りました。日本列島は祝賀ムードに包まれて、多くの人が連休を楽しんでいますが、一方で新しい時代への期待と共に急激に変わりつつある時代の変化を感じて先行きに漠然とした不安を抱いている人も少なからずいるのではないでしょうか。

 聖書にこんな御言葉があります。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」Ⅰテモテ2:1,2

 どんな社会、組織においてもリーダーはとても重要です。リーダーの人柄、物の見方・考え方、決断は、徐々にではあっても全体に及び、全体を決することになります。今の日本は、難しい問題をたくさん抱えていると言えましょう。中国、韓国、北朝鮮、ロシア、アメリカなどとの国際関係、日銀の国債買い占めなどによってようやく維持されている危うさを抱えた経済、少子高齢化、労働力不足、経済的格差の拡大と中間層の没落の傾向、教育や福祉のあり方が社会の変化に追随できない現状、大きな地震などの災害予測・・・等々。日本が置かれている状況にはとても厳しいものがあるのはだれの目に明らかで、難題、課題を乗り越えて次の世代に平和で幸福な国を継承するためにはどうしても優れた知恵が必要です。 

昔、国難を前にしてエジプトのパロが、「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」(41:38)「あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。」(同41:39と言ってヨセフを見出したように、日本に真の神を畏れた知恵あるリーダーが起こされるように祈るべきだと思います。


by sayama_church | 2019-05-06 11:24 | 牧師の窓 | Comments(0)

よみがえりの主

 先週の日曜日は、主イエスのよみがえりを記念するイースターでした。しかし、ある意味では、毎週の日曜日はイースターのようなものです。と言うのは、主イエスがよみがえり、ご自分を弟子たちに現わされたのは日曜日だったからです。それで、主イエスを神の御子、救い主と信じる者は、日曜日に集まり、礼拝を捧げるようになりました。クリスチャンが毎週日曜日に集まるのは、実によみがえりの主を覚えて集まっているのです。

主イエスは、使徒ヨハネの晩年に、主の日(日曜日)にご自分を現わされて、こう言われた聖書にあります。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」黙示録1:17,18

 ここに「わたしは死んだが」とあります。主イエスは、確かに死なれました。神に創造され、愛されながら、神に背を向けて、本来の人としてのあるべき姿から外れてしまった全人類の罪の赦しのために身代わりとなって血潮を流し、死んだのです。血を流す(いのちを捨てる)こと以外に神の前に罪の赦しはありません。しかし、主イエスは、ご自分の言葉通りに、死を打ち破り、三日目によみがえりました。ご自分の言葉通りによみがえられたことは、十字架の死が全人類の罪の贖いの代価であるとの主の言葉も確かであることの証であります。そして主イエスは、今も生きておられるのです。

天においても地においてもすべての権威が与えられている主イエスが、罪を悔い改めて、主イエスを信じ、従う者と共にいてくださるとは何と幸いなことでしょうか。


by sayama_church | 2019-04-30 17:46 | 牧師の窓 | Comments(0)

キリストはよみがえられた

 イースター、おめでとうございます!最近は、一般にもイースターが知られるようになりましたが、教会にとりましてはある意味でクリスマス以上に大切な記念すべき日です。キリストの復活がなければ、キリスト教は存在しなかったからです。イースターは、キリストのよみがえり、復活を記念する日です。

 インドでの話です。ある人が市場で福音を説教していると、一人のイスラム教徒が群衆から飛び出してきて言いました。「われわれイスラム教徒には、あなたたちクリスチャンが持っていないすばらしいものがある。」説教者は尋ねました。「それは何ですか。」彼は説明を始めました。「アラビヤに行くと、ムハンマドの墓があって、われわれは自信をもって『ここにわれわれの預言者のご遺体が眠っている』と言えるのだ。あなたがたクリスチャンは礼拝できる墓がない。」(ジョン・シーモンズ著「主を仰ぐ朝」から)説教者の答えは、言わずと知れたものでした。「われわれクリスチャンには墓はありません。ご遺体はありませんから。」

キリスト教がキリスト教であるのは、キリストの墓が空であったからです。キリストの亡骸は存在しません。イエス・キリストは、旧約聖書が預言していた通りに、イエス・キリストが予め語ったように、三日目に死を打ち破ぶり、栄光のからだによみがえられたのです。弟子たちは、復活の主イエスに出会ったのです。

だれも成し遂げられなかった人類の最大の問題である死の力を打ち破られた主イエスは、人生に悩み、罪に苦しみ、死を恐れ、生きる力を失っている私たちを救うことができるのです。

「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」ローマ1:4


by sayama_church | 2019-04-21 20:01 | 牧師の窓 | Comments(0)